ばらいろのウェブログ(その3)

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すべての運動課題は「沢山ある運動課題の中の一つ」(「橋下知事の朝鮮学校脅迫に抗議する!」への意見)

橋下知事に断固として抗議する。
肖像画を掲げるか外すかが問題の本質ではない。
日本人が「外させる」ことが問題なのだ。
http://d.hatena.ne.jp/mujige/20100312/1268417059


 id:mujigeさんのこの意見、日本人による暴力、日本人による在日朝鮮人差別を可視化して問題にするという点では、とても鋭いいい言い方だと思います。しかし、私は、この言い方には賛成できない部分があります。


1:橋下大阪府知事大阪朝鮮高級学校を訪れ、府独自の補助金の支給を提案しつつ、同時にいま支給しているなけなしの補助金を打ち切ることを示唆しながら、総聯との関係断絶や、共和国指導者の肖像画を外すことを要求したことは、大阪府知事として全く不当なことだと思います。


2:私は、そこがどこであれ日の丸の掲揚に反対です。また、そこがどこであれ、金日成さんや金正日さんの肖像画を掲げることには反対です。しかし、行政府の長がその権限や影響力を行使して、学校のあり方や教育内容に介入することは、不当ですし、反対です。


3:日本政府には、在日朝鮮人の民族教育を保障する責任があります。しかし実際にしてきたことは、民族教育を破壊し弾圧することでした。現在の朝鮮学校の民族教育は、そういう度重なる日本政府による国策による民族教育つぶしに抗して、維持されているものです。この歴史的経緯をふまえる時、橋下知事の言動は、単なる意見表明というよりは旧来から続く民族教育への弾圧の現在風の表現であると考えざるをえません。


4:そういった観点から、橋下知事に対しての「民族教育と思想・信条への公権力の介入であり、相手の足下を見た脅迫」「踏み絵を踏ませ、朝鮮人を思うように操ろうとすること。それこそが朝鮮人の主体性を無視し、人間性を破壊し、民族をずたずたに分断しようとする、最悪の差別行為」というid:mujigeさんのこの意見には、賛成です。


5:しかしながら、「肖像画を掲げるか外すかが問題の本質ではない」と言うことは、賛成できません。なぜなら、「拉致犯罪者の肖像画を何故掲げる?」という疑問には一定の正当な根拠と説得力があり、肖像画が問題になる事自体は、社会的には正当なことだからです。「肖像画の件は、避けることのできない重要な問題の一つ」なのです。


6:橋下知事(や日本政府や日本社会)の朝鮮人差別を問題化/可視化したり批判/抗議することの代償として、それ以外の問題が不可視化されたり「より重要ではない問題」的な扱いをされることを「やむを得ない」と許してはいけません。
 すべての運動課題は「沢山ある運動課題の中の一つ」でしかありません。自分が取り組む運動課題を中心化しようとする(他の問題よりもこの問題の方が重要だ)発想や言説は、「公平な社会」を創るのではなく、「自分たち」が社会的権力を取って自分に都合良い社会を創ろうとする(昔風の)間違った運動です。


7:こういったことを書くのには理由があります。それは、在日朝鮮人への差別に反対する運動の側に、二重規範があると感じるからです。日本政府や日本社会そして「国際社会」の状況があまりにひどいという事実をいい訳として使うことで、北朝鮮政府への批判を躊躇したり、運動内部の問題点を批判することが妨げられていると感じるからです。
 そしてまたそれは、「単一課題のみを扱う(シングルイッシューの運動)」という発想や運動のあり方に起因している、とも言い換えられます。フェミニズム以降、「単一課題のみを扱う」という運動のあり方はさんざん批判されてきたはずですが、そういった運動の積み重ねが反映されているように思えないことがあります。「私は日本人だから、朝鮮人の批判はできない」みたいなものの見方は、本当に一掃しないともう先がないです。
 現在の運動内部の問題を可視化して改めていくことは、社会運動が社会的な説得力を獲得するためには必要不可欠なことだと私は思っています。本当に日本社会のあり方を変えるためにこそ、本当に様々な差別に反対するからこそ、まず「社会運動のあり方」を変えないといけないと私は思います。
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【参考サイト】

*1:私自身の個人的な経験からは、既存の運動団体や活動家に「利用される」という危惧を抱いたところから来ています。善意で良心的に動こうとしている人さえも、権威主義的な運動の側の歴史の(負の)影響を大きく受けており、付き合いきれないと感じることもあります。なるほど、だから人が運動から去っていくのね、と感じました