ばらいろのウェブログ(その3)

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まもなく「石原都知事の同性愛者差別発言、なにが問題か?」開催!


 昨年末の石原都知事の一連の発言(記事の末尾に発言概要・要約元)を受けて、「石原都知事の同性愛者差別発言に抗議する有志の会」が作られ、今日1/14(金)19時からイベント「石原都知事の同性愛者差別発言、なにが問題か?」が開催されます。
 石原都知事には問題発言が多く、「不法入国した多くの三国人、外国人(2000)」発言は、国連でも「東京都知事外国人差別的演説」と問題化しました。「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」(2001)」「フランス語は数を勘定できない言葉/国際語として失格(2005)」も、それぞれ裁判になりました。そういった意味で、今回の石原都知事の同性愛についての不当な発言に対して、東京で抗議の声が上げられるのは、正しいし必要なことだと思います。そういう最も広い意味では、「有志の会」の動きを肯定的に見ています。(デモをしようという動きもあるみたい。どんどん、やろう!)
 とはいえ実は、私は、このイベントについて幾つかの不満(後述)はあります。しかし、特に東京においてこれまで目立っていた(特にゲイ系の)社会運動に見られるダメな点が、あまり見られない…いやむしろ、今回の動きには積極的に支持できる部分もあるので、いい展開になるといいなぁ、と思ってみているところです。

「有志の会」という名前がいい


 この「有志の会」の動きについて、私が最も素敵だと思うのは、まず何よりその主催団体の名称です。この一連の運動が「セクマイ全体」を代表するようなものではなく、あくまで「有志の運動」だということを、極めて明確に掲げていることが、まず何より支持できます。私たちは、ともすると、「多数派ではないもの」「オーソライズされていない/社会的に公的な承認を得ていない」こと、少数派の意見、「代表者ではないヒラの1メンバーの意見」、全体ではない一部の人の意見、というものを、矮小化したり過小評価したりしがちです。そしてだからこそ、「自分たちは少数派ではない」「自分たちこそが主流派だ」「私たちは●●を代表する存在だ」と偽装し、またそういう【フリ】をしがちです。もしくは、そういう【フリ】をする事で、自分たちのメッセージを社会に届けようとしがちです。(そういう【フリ】をしない限り、自分が無視される/メッセージが届かないと、思いこんでいる)
 その典型的なダメな例が「セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間 」でした。内閣府法務省の後援を得たり、全国の(しかし事前に選別された)セクマイ系団体の(形だけの)賛同団体をずらっと並べることで(賛同団体の声かけは恣意的なものでした)、「私たちはセクマイの運動の多数派だ」と偽装し、また「公的な権威」を身にまとおうとし、また纏っているフリをしました。企画名にも【「正しく」理解する週間】と堂々と掲げてしまい、「何が正しい事なのかを自分たちは知っている」という傲慢な立場に立ちました。そしてだからこそ、この「正しく理解する週間」は、全国のセクマイのコミュニティーからも様々な角度からの厳しい批判を受けたのです。(「セクシュアルマイノリティを正しく理解する週間」 何が問題か?
 それと比較すると、この「石原都知事の同性愛者差別発言に抗議する有志の会」は、いさぎよいです。実際、【全ての同性愛者が石原発言に抗議している訳ではない】ですし、またこの「有志の会」がセクマイや同性愛者の代表な訳でも何でもありません。そういう事実に立脚し、自分たちを「多数派/主流派だ」「代表だ」と偽装する必要性をそもそも全く感じていないからこそ、敢えて「有志の会」なのではないでしょうか。果たしてそれが「有志」でしかないからといって、「一部の人の意見」だからといって、価値が低いのでしょうか。無視されてもいいのでしょうか。そんなことはないのだ、と、自分たち自身が心の底から思っていることこそが、大切なのです。なぜなら、どんなに世界がよくなっても。セクマイは「数の上では少数派」である事自体は未来永劫変わらないからです。「私たち」は、まず自分たちのつくる場において、「少数派であることが損することを意味しない」「少数派が少数派のままで生きれられる」そんなあり方を作らなければならないのです。

公開性・オープンさ

 2番目に、この動きがいいなと思うことは、その公開性・オープンさです。この動きの「実際の意志決定を行う場」は、日時と場所が一般にも公開され、興味のある人に参加が呼びかけられて来ました/います。私は実際に会議に参加した訳ではないので、実際の会議の場が、本当に自由に意見を言える雰囲気かどうかは知りません。でも、どのような場であっても言いやすい意見と言いにくい意見があるのは事実だからこそ、どんなにその場の皆に嫌がられても場から排除されないこと、つまり、意思決定の会議の日時と場所が一般に公開されていて誰でも参加できることが、とても重要なのです。【←反対意見・少数意見を排除できない仕組み】
 セクマイ業界は、その内部に本当に多様な意見が分布しています。ですので、話し合いをみんなでするのは結構タイヘンです。そのことへの対策として、一部の「エリート活動家」や意見の合う数人だけで運動や場の方向性を決めてしまって、「私たちの決めた方向性を支持する人は集まって下さい」というやり方をする人たちもいます。でもそういったやり方は、「みんな」で運動を創るようなやり方ではありません。実際に社会運動に関わってみれば分かることですが、社会運動の現場も他の世界と同様に、誰がボスになるかの力比べや、意見の違う人への攻撃や排除が、沢山あります。発起人になることで自分にとって有利に話を進めようとしたり、「有力者」同士であらかじめ談合して重要なことは決めてしまって根本的な方針の話し合いを公開の場でしないで済まそうとすること、などは、実は例外的なことではありません。
 砂川さんが「東京レズビアンゲイ・パレード」の開催を呼びかけたやり方も、そういったトップダウンの間違った方法でした。関西でも、数人の活動家が勝手にパレードの名称などの重要な事項を決めてパレード開催を呼びかけたりしたことが二度もあった(2000年の時2006年尾辻さん問題)のですが、その度に、そういう「トップダウン」のやり方はおかしいという声がコミュニティーからあがり、方向性と運動のやり方が変えられてきました。そのおかげで現在は、関西レインボーパレードや関西クィア映画祭などでは、毎年第1回の実行委員会から日時が公開され、関わりたい人が誰でも最初から関われるような運営が行われています。
 また、形式的には最終的な決定権が「みんな」にあるフリをしながらも、実質的には一部の「有力者」だけで大事なことを決めてしまって、ホントに形式的な「可決」を総会でするようなやり方も、クィア学会がいい例ですが、珍しいことではありません。
 今回の「有志の会」の動きは、そういった「一部の人だけで大切なことを決める」「一般参加者には決定権がない」というやり方をとりませんでした。何をするか、どうするか、一番大切なことを決める集まりの場から「誰にでも」公開されていたということが、とてもいいなと思いました。

レズビアンが可視化されている

 もう一つ、この「有志の会」の今日の企画がいいなと思うのは、レズビアンが可視化されていることです。性別やセクシュアリティーがMixの場で何かをする時、本当にしばしば(というよりほとんどの場合)男性の都合ばかりが優遇され、目立つところには男性ばかりで、女性の存在は不可視化されます。同性愛を看板にして何かをする時に、レズビアンが可視的に存在することは本来なら特に触れるような事ではなく「当たり前」のことであるはずなのですが、そうでない場合があまりに多すぎる現在の状況を見た時、今日の企画がレズビアンを可視的に扱っているのは大事なことだと思いました。
(参考:テレビとセクマイの話をする時、レズビアンとしてカムアウトした人がテレビに映ることがほとんど無い事実は、忘れられている)

相変わらず「バイセクシュアル」は不可視

 しかし残念なことに、「バイセクシュアル」は【いつものように】不可視化されたままです。これが、今日の企画についての私の「不満」の一つ目です。石原都知事が攻撃したのは同性愛者だから「バイセクシュアル」に触れなくても別にいいではないか、などと思いませんでしたか?はい、まさにそのような発想こそが、同性愛者中心主義であるように私には思えます。石原都知事の発言は、最も狭く解釈しても同性との性愛関係に対する攻撃です。性指向の多様性を攻撃したのが石原発言であり、性指向の多様性を攻撃する時に「同性愛者」という語が使われたに過ぎません。私には、「バイセクシュアル」は日常生活でも無視されLG系コミュニティーでも嫌悪され、それだけでなく性指向の多様性を攻撃する時にさえ「バイセクシュアル」は無視されてしまっている!と感じられます。
 異性愛社会の中で同性関係嫌悪(ホモフォビア)の存在が見えにくいように、異性愛社会とLG系コミュニティーの中にあるバイ嫌悪も、実は見えにくい。そしてそれに立ち向かって行くには、常に意図的に「バイセクシュアル」の可視化のための努力を行うこと、コストを払って意図的に「バイセクシュアル」を肯定的に取り上げていく事が必要なのです。
 ただ、前半に書いたように、今日の企画は初めから公開されたオープンな運営の中で内容が決められてきたようです。ですので、本来なら私も会議に参加できたらよかったな、と思いました。また実際に意志決定会議が公開されている以上、そこに行かなかったのは私の意志/選択である事を踏まえれば、私自身が「バイセクシュアル」の不可視性に不満を持っていたるということを明らかにするのはいいとしても、そのことをもって一方的に「有志の会」を非難するような態度にはならない、と思いながらこの文章を書いています。

都条例の問題に触れずにテーマを同性愛に限定してしまっている

 もう一つの私の「不満」は、広報文からは、今回の石原発言問題を「同性愛」の切り口からだけ問題化し、そもそもの発端であった都条例の問題に触れていないことです。
 先ほど書いた「バイセクシュアル」のことは、おそらく直接会ってちゃんとお話ししたら一定の共通認識にたどり着けるような気がするんですが、この「テーマ設定をどうするか」という点については、「有志の会」の人たちと私とでは、時間をかけて話し合っても意見の方向性の違いが残るのではないか、という予感がしています。

出演者も「有名人」が多い

 この辺まで来ると趣味的な部分もあるかと思いますが、出演者は「有名人」が多すぎ、とは私は思いました。そういう人選は、私はあまり好きではありません。
 あと、cMasak マサキ(松本政輝) さんがtwitterで「ことごとく私の身の回りの人というのは呼ばれないのね」「「ゲイ・トークゲスト」と「レズビアンカップル・トークゲスト」と「司会・進行」しか枠がなかったら、たしかに私の身の回りの人はどれも無理っぽいわ」と書いています。ま、私も似たようなことを思いはするのですが、私も書くならある程度私の意図や思いをちゃんと書かないと誠実でないかな、と思ってこのエントリーを書いています。



 いすれにせよ、今日のイベントは間もなく開会!紹介するならちゃんと私のコメントと共に、と思って、ブログでもtwitterでもこれまで一切触れてきませんでした。おかげで宣伝協力には全然間に合わないタイミングになってしまいましたが(^^;)、一応企画の紹介のエントリーでした。
 盛会をお祈りいたします。


原発言の概要


 昨年12月に「東京都青少年の健全な育成に関する条例」の改正案が東京都議会で審議されていた。12/3に都PTA団体などが改正案の成立を求める要望書を都知事に提出した際、石原慎太郎東京都知事は「子供だけじゃなくて、テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。使命感を持ってやります」などと発言した。折しも12月4日から10日までは「人権週間」であり、啓発活動強調事項には「性的指向を理由とする差別」の項目も挙げられた中の、知事のこの発言だった。
 更に、毎日新聞記者が都知事の定例会見で3日の発言の真意を問いただしたところ、同性愛者についてさらに「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」「(米・サンフランシスコを視察した際の記憶ととして)ゲイのパレードを見ましたけど、見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」などと言及した。
(要約元→http://ishiharakougi.blog137.fc2.com/blog-entry-3.html