ばらいろのウェブログ(その3)

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「慎重に批判すること」「必要な前提を踏まえて相手に通じる批判をすること」を避けてはならない

先日のワタシの記事「朝鮮学校(高級部)を無償化の対象から外す動きについて、ほか」への、id:mujigeさんのブクマコメントへのお返事です。

mujige id:tikani_nemuru_M 悪りぃ、いろいろ考えてコメント消しちゃいました。まあ、民族運動内部への批判は慎重でありたい。ひびの氏がどうこうではなく、自分の気持ちとして。批判が通じるためには様々な前提が必要だと思う。


 まず正直には、先の記事の程度のことで「批判」としていろいろ話題になるのが、今ひとつピンと来ません。これが正直なところ。というのを言っておいた上で…。
 気持ちとしては、id:mujigeさんの書かれるようなこと、ある程度共感をします。植民地支配までさかのぼらなくても、日本政府が朝鮮総連やその前身団体(朝連)にしてきたこと(本記事末尾のリンク先参照)を考えれば、日本政府や、日本政府を選挙で支持し続けてきた日本人に、朝鮮総連の批判をする資格などない、批判だなんて傲慢にも程がある、という気持ちも、理解できます。また過去だけでなく、現在も朝鮮総連破壊活動防止法という不当かつ違憲な法律によって監視団体に指定されており、つまり現在も日本政府は朝鮮総連に対して公然と敵対し公然と弾圧をし続けています。そういう日本政府の公然たる国策としての朝鮮人差別政策がある中で、一体誰がどうやって朝鮮総連を批判できるのか。


 全くその通り。もし私が、朝鮮総連や民族運動の批判は行うけれど、日本政府と日本社会のあり方についての批判を躊躇しているのであれば、私のあり方は単なるマジョリティーの傲慢そのものです。そして残念ながら、実際には、朝鮮総連や民族団体の批判をする人たちの中には、日本政府の国策としての朝鮮人差別政策の歴史と現状を否定/無視したりする人も少なくないと思います。id:mujigeさんの言葉を借りるのなら、民族運動内部への批判が通じるためには「日本政府の国策としての朝鮮人差別政策の歴史と現状」に反対であるということを、あらかじめ明示的に示すことは不可欠です。その前提を踏まえない「批判」は、朝鮮人差別を別の言い方で実践しているに過ぎず、なんの説得力もありません。なぜならそれは、単なる二重規範ダブルスタンダード)だからです。「様々な前提が必要だ」というのは、この意味においては賛成です。
 それから更に、日本政府の国策や日本社会の朝鮮人差別の意識が強くある中で、民族団体の人たちが思っていることを自由に言えない状況があります。その状況下での意見交換は、外見上「対等」に見えても、結果的に意見の押しつけになりやすい、という事実もあります。そういう意味では、意見の押しつけにならなにように気をつけるという慎重さを持つことは、大切なことだと私も思います。


 しかし、それらを踏まえた上で「批判が通じるためには様々な前提が必要だと思う」というコメントには、賛成できません。なぜなら、まずこのような一般的な言い方をすることで、結果として、民族運動内部への批判をすべきでない、と言ってしまっているからです。「批判が通じるためには様々な前提が必要だ」というのは私は上記の通り事実だと思いますが、その事実が、民族運動への批判をしない、という結論を導くために使われてしまっています。しかし本来この件を「まじめに」論じるのなら、何より大切なことは「批判が通じるために必要な様々な前提」を、実際に具体的に挙げて、「通じる批判」をしていくことではないでしょうか。「私たち」に必要なことは、それが誰に対してであっても、まさに説得力を持って、よくないことに対してはよくないとあくまで言っていくことであるべきです。
 また「慎重さ」についても、「慎重さが必要だから、批判しない」という方向にではなく、「慎重に、批判すべきは批判する」という態度が必要ではないでしょうか。
 社会運動をするときには、その運動の目的のために、本当にご都合主義的な態度や解釈をしてしまいがちです。異性愛主義者のフェミニスト日本国憲法第24条の条文自体が持つ異性愛中心主義を認めなかったり、護憲論者が憲法第一章の天皇制自体の問題をスルーしたり、私学助成を肯定する人が憲法89条の条文を勝手に解釈改憲したりする、そういう態度と同じ事をしてはいけません。「味方」の問題点を過小評価し、「敵」の問題点を過大評価するような二重規範ダブスタ)は、「私たち」の運動の中からは厳しく一掃していくべきなのです。


 それから第二に、「批判が通じるためには様々な前提が必要だと思う」とだけ言って、結局は民族運動内部の批判を避けるような態度は、個々人が対等につながっていく可能性をふさぎかねない、と思います。
 id:mujigeさんのことは詳しくは存じ上げないので分からないので一般論としてですが、なんだかんだと結局民族団体内部の問題には目をつぶるような日本人の態度こそ、被差別者に拝跪する態度、被差別者をバカにする態度、人に人として向き合わない態度ではないでしょうか。加害者や支援者という属性に自身が留まることで自身の身を守り、被害者/加害者という関係を永遠に続けるためにこそ、被害者の発言を絶対視したり、相手への批判を躊躇したり、するのではないでしょうか。
 確かに私たち1人1人は、自分の意志とは無関係に、一定の社会的関係の中に生まれ、育ちます。自分がどういう社会的位置の中にいてどういう特権を持っているかに無自覚な態度は端的に「バカ」です。しかし大切なことは、自身のおかれている位置を自覚した上で行動するということではないでしょうか。
 私が、日本社会の日本人中心主義に反対したり、朝鮮人への差別に反対するのは、私が日本国籍を持つ日本人だからではありません。また、日本国籍を持つ日本人としての責任を果たすためでもありません。わたしは、それが不当なこと、差別だから、それに反対しているのです。もちろんその際に、日本国籍を持つ日本人が今の日本でどれほどの優遇と特権を享受しているか、私がなぜ今のようにものを言える状況にあるのか、等について考えたり踏まえたりすることが重要なのは、(くどいですが)言うまでもありません。


【参考記事】
差別と正しく付き合うために




 以下は、日本政府が国策として、敗戦後も一貫して朝鮮人差別と朝鮮学校への弾圧を、意図的自覚的確信犯的で、かつ物理的暴力の行使も躊躇せずに行ってきたかを(「あちら側」から)示す記事。ちなみに記事中「26年のサンフランシスコ平和条約締結で(在日朝鮮人は)日本国籍から離脱」と書いてあるが、盗っ人猛々しいにも程がある。日本政府は、朝鮮半島の植民地化(朝鮮併合)に伴い朝鮮人を勝手に日本人にして日本国籍を押しつけ、敗戦後は一転して勝手に日本国籍を剥奪した。
過去に朝鮮学校排除の閣議決定があった…高校無償化で論議必至(産経ニュース)


以下、日本における朝鮮人の民族教育の歴史が読めます