日本で「Black Lives Matter」を掲げる時に、私が悩んでいること

日本で「Black Lives Matter(BLM)」が話題として取り上げられている時、それは「米国が日本の宗主国だから」「米国が世界的な帝国主義国だから」、だから日本で米国の問題が大きく取り上げられる、日本人が米国の問題であるBLMに関心を持つ、という側面が実際にはあります。
米国以外の国での民衆の闘い、例えばボリビアの先住民の闘いや、アフリカ諸国の鉱山での黒人の生きるための闘いは、いずれも世界規模の帝国主義植民地主義によって作られてきた現実への異議申し立てであるとも言えますが、BLMのように日本で広範な関心を持たれることは、あまりありません。
(ちなみに、ラテンアメリカにおける先住民の闘いは、規模も大きく歴史も長く質的にも重要というかホントに深いので、勉強してみることをオススメ。)

 

そしてさらに、日本の帝国主義植民地主義の歴史的産物でもある朝鮮人への差別は、米国で米国の奴隷制の結果である構造的黒人差別が関心を持たれにくいという事実と同様の構造的な理由により、日本国内では関心を持たれません。どちらも、国家や社会の成り立ちの根幹を差別で賄った歴史があり、現在もその差別が合法的に制度化されていると言えます。
(ちなみに書いておくと、在日朝鮮人は未だに参政権が剥奪された状態にある。日本国憲法の秩序は、在日朝鮮人への差別を制度化した秩序である事を、日本の左派は一貫して無視し続けている)

 

もしBLMを米国国内問題としてみるのではないのなら、つまりBLMのグローバルな、世界的な展開を考えるなら、それは、米国の奴隷制を創りだした米国の帝国主義、米国の植民地主義の歴史に反対する事を意味するはずです。
そしてそれは、「英語ができて当たり前、英語が国際語」「米国の出来事に、世界が関心を持って当然」みたいな形でも現れる、現在の米国帝国主義や米国中心主義への反対も意味するはずです。
(もちろん、「米軍が日本に駐留したり、米軍基地が沖縄に居座るなどの、現在進行形の米国帝国主義的状況」に対して、明示的かつ積極的に反対することも、そこには含まれるはずです)

 

だからこそ私は、米国帝国主義にも反対する立場から、「BLM運動は、世界にたくさんある闘いの中の一つに過ぎない」という形で、積極的に限定化と相対化を引き受ける事/課す事こそ不可欠だ、と考えています。しかし同時に、とはいえ、限定化と相対化は「all lives matter」のように、結局は黒人差別の固有の文脈を消すために使われやすいし、実際に米国でそう使われてきたという事実があるからこそ、あえていま「Black Lives」と掲げられているのだとも、認識しています。

このような状況下で、日本でBLMを扱う時に、現在の米国帝国主義をなぞる事にならず、日本の植民地主義を問うことを避けず、かつ黒人固有の課題に焦点を当てる、ということをするために、どんな事に気をつけたらいいのか。
ぜひ意見を聞かせて下さい。ちゃんと意見の交換をしたいです。

 

参考資料

wezz-y.com

 



上記の文章は、
WEB講演会「日本におけるブラック・ライヴズ・マター(黒人の命を尊重しろ※)運動を考える」
https://www.kyoto-seika.ac.jp/news/2020/0708.html
の参加申込みにあたって、質問があれば書いてとあったので書いてみたら長くなった文章ですw
でも、いまこの件で私が考えていることが短くまとまっています。

ぜひあなたの意見を、コメント欄に書いてください。

韓国での、日本軍「慰安婦」支援団体をめぐるあれこれ(資料ページ)

韓国の「慰安婦」支援団体で内紛!
慰安婦」団体が不正会計疑惑!

など、いい加減な情報に引っかかっていませんか?
日本では、「慰安婦」問題について、不正確な、というより明らかなデマが、あふれています。

自分で、一次情報を確認してみませんか?
「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の人たちが、一次情報をまとめてくれています。

いま問題になっていることは、二つあります。

  1. 「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)
  2. 社会福祉法人大韓仏教曹渓宗ナヌムの家」

ほぼ同じ時期に提起されたので、混同されることがありますが(というか、ちゃんと「慰安婦」問題に取り組む気のない人たちがこの二つの問題を混同して、「慰安婦」運動それ自体をおとしめるキャンペーンを張っていますが)、基本的には別の問題です。


「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)

一つは、李容洙さんが尹美香さんを批判する記者会見をしたこと。
記者会見の元映像や、当事者の発言の日本語訳などが読めます。

wam-peace.org


社会福祉法人大韓仏教曹渓宗ナヌムの家」

もう一つは「ナヌムの家」の実務スタッフが、「ナムヌの家」を運営している宗教団体にたいして行っている、内部告発
慰安婦」として被害を受けた女性たちのために、スタッフ達が不正をただそうとしているのが分かります。

wam-peace.org


いずれも、戦時性暴力、「慰安婦」問題の被害と加害を伝える日本初の資料館、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)の皆さんが提供してくれています。
日本軍「慰安婦」問題についての分かりやすい資料も豊富です。
関東圏の方はぜひ一度訪問を!

wam-peace.org

 


 

考えるヒント資料

…「韓国国民が『慰安婦』問題と被害者の証言にこれほど関心を持って聴取したことがあっただろうか」と思う。キム・ハクスンさんの登場後、韓国では被害者の証言が数え切れないほど行われたにもかかわらず、なぜよりによってこの「証言」を多くの市民たちが一緒に聞くことになったのか、今のこの状況に胸が塞がる思いだ。…

…研究者(または活動家)が被害者と人間的な関係を数十年間持続し彼女らの面倒を見るということは、途方もない労働であり、倫理的な課題である。告白すると、証言チームの研究者たちは証言者との関係を持続したケースがほとんどなかった。証言研究が終わると、私たちはそれぞれ生活が忙しく、ハルモニたちとの関係が疎遠になったのだ。…

japan.hani.co.kr

 

…これまで民主党系列が好んで使っていた「韓日戦フレーム」、3・1節や8・15で、あるいは韓日の確執が深まった時にのみ水曜集会を訪れ報道することで、「慰安婦問題」を戦時性暴力の問題ではなく、「韓日間の外交懸案」または「日帝の蛮行の証拠」程度に見るように仕向けてきたメディアの報道姿勢などがこの状況を作っているのだ。多くの人々はこの状況の中で「慰安婦問題の解決に向けた運動」に接する。水曜デモの現場でいくら女性の人権を強調し、韓日の市民社会の連帯を叫んでも、それは多くの人々には届かない。それは果たして挺対協・正義連の責任だろうか。…もちろん挺対協・正義連が、政治家とメディアが作り上げたこのフレームから抜け出そうとばかりしてきたわけではない。…しかしそれは挺対協・正義連の運動が原理原則のみを振りかざすものではなく、現実的に問題解決を追求しなければならなかったからだ。…

japan.hani.co.kr 

 

…沖縄のペ・ボンギさんが、本人の意志ではなく、ひとえに生き残るために仕方なく「日本軍慰安婦」だったという事実を明らかにしなければならなかった時、沖縄の住民たちは「あなたはつらい記憶を引き出して証言しなくていい。私たちが覚えている。私たちが証言する」と言った。記憶を通じて非可視化された存在を可視化するとき、記憶に対する責任と倫理的義務は誰にあるのだろうか。暴力の被害当事者にのみ証言の義務を強要し、その証言を通じてのみ存在を信じることができるという社会は、どのような社会だろうか。…

japan.hani.co.kr

 

…しかし、怖さの中でも一言を切り出したのは、沈黙の理由を言いたいからだ。この半世紀、”ハルモニ”たちの沈黙を生んだ暴力は、依然として省察されないまま続いている。「私の方がよく分かっている」と先を争って言い出す人々の後ろで、数知れない人たちが言うべきことを言えずに沈黙している。私はこの沈黙を代理することはできないが、私の気持ち推して慎重に察するとしたら、明らかに人々の口を閉ざさせる苦痛と怒りがあるだろうと思う。いつもとてつもない苦痛の跡を残した最初の暴力は消され、その苦痛の跡のためにちゃんと考えてちゃんと休めなかった人々が互いを非難することが繰り返されるということ、そして最初から暴力を傍観したり共謀した人々が、この争いを勝手に評価し裁断することが繰り返されるという事実に、私には我慢できない。…

japan.hani.co.kr

 

第15回大阪アジアン映画祭に行ってきました

自粛ムードの中で、今年も大阪アジアン映画祭が開催されました。
せっかくなので、簡単に個人的な感想などを(^^)

 

『ミス・アンディ』

ネット上では意見が分かれていたので見に行きました。私には、何かよくわからない映画でした。
(どうしようもない不幸をリアルに描いた作品というなら、トランス女性作品ではないですが、『モンスター』の方が私は好きです。救いがない感じがリアルです。)
『ミス・アンディ』は、トランス女性を描いた作品との事でしたが、ベトナムからの移民のソフィアの物語としても、私は見てしまいました。
トランス女性といえばセックスワーカーばかりだとか、そういう批判もできはするでしょうが、それより、私は、監督の意図が読めないことが気になりました。このストーリーは、マレーシアで実際にあった出来事を映画化したのかな?もしそうなら、それにしても、あまり芸がない感じ。そして実話でないとすると、やはり、人が不幸になるネタをいくつか集めて、寄せ集めて、とにかく映画を作りたい人が映画を作ったのかな?と感じました。もしトランス女性に応援的な映画を撮るのであれば、このシーンは要らないのでは?というシーンもあって、「トランス女性が置かれる厳しい状況を描いた」では済ませられない印象でした。もしかしたら、主観的には監督はトランス女性を応援したかったのかもしれませんが、例えば以前に大阪アジアン映画祭でも上映した『女は女である』は、不十分なところがあるとはいえ、明確にトランス女性に寄り添おうとする意思がある事を感じたのとは、違いがありました。
最後に、この映画の邦題は、邦題をつける時に下手をうったのかと思っていたのですが、映画冒頭にも『Miss Andy』とバッチリ出てたので、監督の意図したタイトルなのでしょう。主人公は映画の中でもハッキリと「イヴォンと呼んで」と言っているのに、あえてトランス前の男性名アンディを冠する意図が、わかりません。タイトルに引きずられて、大阪アジアン映画祭での紹介文にも「アンディ」が使われていたのは残念。
 
 

『フォーの味』

『ミス・アンディ』の後に見たのが、『フォーの味』。これは、とてもよかったです。民族的マイノリティが、毎日の生活の中でどんな目に遭っているか、本当に分かりやすく、見せてくれました。
ひどい、それこそ厳しい状況を淡々と描くのですが、被差別側からの視点なので(そしてアジアンである日本人も被差別側に感情移入しやすいので)、上から目線の「かわいそうなマイノリティ」感はなく、サバイバルする姿として見せてきます。
そしてさらに、もう少し引いて考えて見ると、この映画の中でのバカなポーランド人達の一言ひとことは、日本でのバカな日本人の、例えば在日朝鮮人への、バカな(無知で無邪気な)一言ひとことと瓜二つです。身に染みる感じ。
ボブリックまりこ監督は福岡県出身の日本人との事ですが、日本に住むマジョリティとしての日本人にも、この映画を見てマジョリティとしての自身を振り返るきっかけになる事も意図しているのでは、と想像しました。
厳しい状況を淡々と描くからこそ、その中にある優しさ、他人への思いやりなどがじわっと染みてきます。肯定的なものに繋げていきたいという、監督の強い意志を感じました。本当に映画らしい、いい映画でした。

 

『メタモルフォシス』

少なくとも日本では既に使われない「真性半陰陽」の言葉が映画内で出てきたり、最近はあまり使われない用語「インターセックス」の映画として紹介されているなど、やや警戒しながらの鑑賞。学校とかキリスト教とか、以前見たフィリピン映画の『ビリーとエマ』と設定がやや似てるなと思って見始め、だんだん引き込まれていった。
この作品の最大の強さは、主人公アダムのたくましさ。本当に強い。終盤、プロム(ダンスパーティー)にスカートを履いていくとかは、クィアに寄りすぎていて実際にはなかろう、という印象と、両親にも友人にも受け入れられて本人もあれくらい強いなら、今どきの若者ならあり得るとも思わされるストーリーで、せめぎ合う感じ。
映画の中で、「アメリカでは(本人の意思とは無関係に勝手に手術された事に)抗議も起きている」などのセリフが出てきて、米国での当事者達の闘いの歴史と成果に、こんな形で映画の中で触れられたことが新鮮だった。
インターセックスというアイデンティティを用いるかどうかは、地域性や個人的な状況によってもいろいろで、一般的な言い方ではなんとも言えないところ。
ただ、ラストシーンで、外性器を明示的に映す必要はなかったのではないか。身体も受容したアダムの強さとして自然にみせたかったのかもしれないが、そこまで強くあれるものなのかな。私には、非当事者の覗き趣味に応じてしまった(インターセックスを見せ物にした)と感じられた。その点が残念。

 

『家に帰る道』

とても良かった。映画の力を感じる映画だった。性的な暴力があった時、それが単に加害者と被害者の間の出来事に留まらない影響が実際に出てしまうという現実に、ちゃんと向き合って描いた映画だった。また、本当に良心から被害者の事を思う近親者男性のウザさとか、被害者が「典型的な被害者」を演じさせられかねない現実とか、サラッと描いている。そしてこの作品も、主人公のジョンウォンの主体性が強く描かれ、「被害者萌え」として搾取できないくらいだったのが、とにかくよかった。
具体的に何があったのか、ジョンウォンは夫に「あなたには話したくない」と言って話さない。夫は、話してもらえない事実を引き受ける。【事で、被害を分有する。(※昨夜寝る前に勢いで書いてけど、やっぱりちょっと違う気がするのでここは削除。一文を後に追加。3/16)】お互いが別の人生を生きていることを明確化しながら、しかしそれでもつくられ続けられる人間関係は、心地よい。
1人でも多くのひとに観て欲しい映画。

 

『君の心に刻んだ名前』

映画前半の、若い男の子達の暴力的な文化やコミュニケーションのやり方が、本当に心の底から私は嫌いなんだという事を、改めて確認させられた映画。男は全員去勢したらいい、とすら言いたくなる。前半は、嫌悪感しか感じなかったくらいだ。ただ、後半のストーリー展開を見たら、監督の意図は理解出来たので、それ以上は言わない事にします。
ゲイの擬装結婚を描くといつも妻の描写が最悪でウザすぎる事が多々あるけど、そこも最低限はクリアして、少しは時代が進んでいる事もわかる。
しかし、男性特権にも向き合うゲイ男性の映画には、いつ出会えるんだろうか。

有色トランス女性達が立ち上がり声をあげたストーンウォール暴動は1969年6月28日

有色トランス女性達が立ち上がり声をあげたストーンウォール暴動(米国ニューヨーク)は1969年6月28日。
米国LGBT運動の転換点としてよく言及されます。
今年はその50周年です。

ストーンウォール暴動から50年目の今年6月、映画の上映を含む企画がいくつかあります。
声をあげ闘ったトランス女性たちの姿をスクリーンで見てほしい。
そして、トランス女性たちが何を訴えているのか、知って欲しい。
トランス女性たちは、セクマイ内部のトランス差別とも闘ったことを知って欲しい。

以下、上の二つは関西クィア映画祭が協力している企画、三つ目の京都の企画は関西クィア映画祭が主催するミニ企画です。ぜひご参加下さい。

▼6/8土・東京PURX

『Happy Birthday マーシャ!』上映ほか

https://mobile.twitter.com/PURXinfo/status/1134013901840928768


PURX PRE-OPEN
映画上映 & レクチャー | 2000 YEN (ドリンク別)
東京都台東区竜泉1-1-2

▼6/29土・東京ウィメンズプラザ 視聴覚室
『Major(メジャーさん)!』上映会

ストーンウォール50周年記念 映画「Major(メジャーさん)!」上映会 | Peatix


上映会(1) 13時から14時半(開場:12時45分) 
上映会(2) 15時から16時半 (開場:14時40分)  
 ※2回とも同内容を上映します。
 ※上記サイトで前売チケット購入できます

 

▼6/29土・京都大学吉田寮食堂
ストーンウォール暴動50周年★関西クィア映画祭ミニ企画

【6/29 京都】ストーンウォール暴動50周年★関西クィア映画祭ミニ企画

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この問題を考えるための参考までに、
書いておきます。
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●「ゲイの暴動」と呼ぶことの問題

この「ストーンウォールの暴動」は、しばしば、日本語でも「ゲイの暴動」だと言われてきました。
しかしこれは正確な表現ではありません。より正確に、有色トランス女性達が立ち上がり声をあげた暴動だ、と認識し、表現することが、いま必要とされていると思います。
(シスジェンダーの)男性同性愛者を中心とした不適切な歴史観から抜け出すことが、今求められているのです。
トランス女性に対する差別は、社会全体だけではなく、セクマイ/LGBTコミュニティーの内部にも、当時から今もあり、それに抵抗することが今もまだ必要だからです。


●映画『ストーンウォール』は厳しく批判された

米国で2015年に作られた映画『ストーンウォール』は、白人のシスジェンダーの男性同性愛者を暴動の主人公にして描いたため、米国のセクマイ当事者たちから厳しい批判をあびました。それは歴史的な事実に反している、と。
実際、50年前に起きた「ストーンウォールの暴動」で最初に立ち上がったのは、プエルトリコ系のトランスジェンダー女性シルビア・リベラさんと、黒人ドラァグクイーンのマーシャ・P・ジョンソンさんだと言われています。
歴史の事実を歪めて作られた映画『ストーンウォール』は、まず何より「白人による横領(ホワイトウォッシュ)=有色人種への差別」であり、そして、シスジェンダーの同性愛者による横領(=トランスジェンダー差別)、男性による横領(=女性差別)でもあります。
今こういった批判が起きるのは、米国のコミュニティー内部にも、今も、有色人種への差別/トランスジェンダー差別/女性差別があり、それに抵抗することが必要だからなんだと思います。

【参考】

映画『ストーンウォール』が史実を無視しシス白人男性をヒーローに。ボイコットに2万人が署名 - 石壁に百合の花咲く




●英語の「GAY」と日本語の「ゲイ」とは意味が違う

英語で「GAY」は、「男性同性愛者」という意味で使われることもありますが、「男女という制度」や性別規範に外れる人たちを総称する意味で使われる場合もあります。50年前の「ストーンウォールの暴動」を英語で「GAYの暴動」と言う時には、後者の意味です。
しかし日本語で「ゲイ」と言った時には、それは「男性同性愛者」を主に指します。セクマイ全体を包括するような意味で、日本語の「ゲイ」という用語が使われることはほとんどありません。
だからこそ、「ストーンウォールの暴動」を日本語で「ゲイの暴動」と言ってしまうことは、事実に反する不適切な行為となります。
先にも見たとおり、そもそも「ストーンウォールの暴動」は「シスジェンダーのゲイ男性の闘い」ではありませんでした。でも日本語で「ゲイの暴動」と言ってしまうと、それは、「ストーンウォールの暴動」が「シスジェンダーのゲイ男性の闘い」であったと言ってしまうことになるからです。


●東京レインボープライドの不十分な記述

また、東京レインボープライドも、以下のように記載しています。

ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン」で、ゲイ(今でいうところのLGBTQ+)たちが警察の手入れに対し初めて抵抗し、それは数日間にわたる暴動に発展しました。いわゆる「ストーンウォールの反乱」です。

ABOUT TRP2019 | 東京レインボープライド

上記に書いたように、抵抗の主体として日本語の「ゲイ」を使用するという問題があります。
それに加えて「初めて抵抗し」と書くことで、「ストーンウォールの暴動」の前年にトランス女性たちが起こした「コンプトンズ・カフェテリアの暴動」の存在を消し去っています。トランスジェンダーの人たちの闘いを無視する不適切な態度です。東京レインボープライドには、(シスジェンダーの)ゲイ男性を中心とす歴史観に、明確に距離をとって欲しいと心から思います。
【参考】

コンプトンズ・カフェテリアの反乱 - Wikipedia


●日本のトランス女性への差別

日本でも、セクマイコミュニティー内部における、トランスジェンダーやトランス女性への差別は、続いています。
「WOMAN ONLY」を掲げるクラブが、法的に女性IDを持つトランス女性の入場を拒否して、トランス差別だと問題になっているのは、今年の東京での事件です。
【参考】

wezz-y.com




●日本の人種差別

米国のセクマイコミュニティーLGBT運動の内部における人種差別の話をするのが得意な活動家や学者/院生は一定数いますが、その同じ人たちが、日本社会や日本のセクマイコミュニティー/LGBT運動の内部にある日本の人種差別/民族差別に対して、同様に熱心に問題化するのを、ぜひ見てみたいとわたしは心から思っています。
国勢調査に関しての松浦参議院議員(当時)の国会質疑「セクマイだって日本国民」は、文字通り分かり易い外国人差別発言でしたが、これを批判する声は広がりませんでした。クィア学会は、学会発表を日本語に限定し、それが批判を受けても日本語要件を維持し続けるなど、分かり易い日本人中心主義を実践しました。
「私たち」の中でも、課題は山積です。
【参考】

京都スペシャル - 日本のレイシズム—朝鮮人差別への無関心 « 関西クィア映画祭[KQFF] 2012



 

6/29(土)に、京都大学吉田寮食堂で開催の

【6/29 京都】ストーンウォール暴動50周年★関西クィア映画祭ミニ企画

では、こういった問題についても取り上げていきたいと思っています。
ぜひ、お越し下さい。

ひびの まこと

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「吉田寮は廃寮ではないが自治は容認できない」京大執行部が主張

京大執行部が2月12日に吉田寮に対する方針を発表し、記者会見を行いました。

この記者会見は、以下のように報道されました。

以下のテキストは、上記の京大執行部の方針を批判する「吉田寮問題にかかわる教員有志緊急アピール」に賛同する際に、メッセージとして付したものです。

 

なお、本日2月20日吉田寮自治会は「吉田寮の未来のための私たちの提案」を発表し、山極総長・川添理事宛に「表明ならびに要求」を提出しました

吉田寮自治会の「提案」「表明ならびに要求」は、現時点で出せるほぼベストの内容だと思います。吉田寮自治会、あなどりがたし。

 

 


 

吉田寮は廃寮ではないが自治は容認できない』京大執行部が主張」
「居住する条件は『自治を行わないこと』誓約が必要」
自治をやめれば住み続けてもいい 京大執行部が条件」


一般紙であっても、本来、新聞の見出しはこうあるべきだった。

 

▼川添副学長でさえ、これまでは曲がりなりにも「吉田寮生の安全確保」こそが目的だと言ってきた。しかし2月12日に京大執行部が発表した吉田寮に対する方針(と川添副学長の記者会見)は、吉田寮で行われている自治・自主管理や吉田寮自治会それ自体を解体することを、彼らが意図していることを宣言したものだった。少なくとも、吉田寮自治会と京大執行部の双方の主張を追ってきた者にとっては、今回の京大執行部の方針を直接読めば、それはあまりに明らかだった。


▼にも関わらず、新聞各紙の見出しは「京大、吉田寮新棟の居住認める 退去問題で一部方針転換(京都新聞)」などと、事実とは異なるイメージをつくり出すものだった。実際に私の友人も、新聞記事だけを読んで「吉田寮に今後も住み続けられるみたいだね(ハート)」などと言い出す人までいた。京大執行部による印象操作が、実に上手くいっていた。


▼そんな状況だったからこそ、この間の京大内部でのいきさつを知る教員達から『大学執行部の本当の狙いが「寮生の安全確保」ではなく、自治寮としての性格の解体である』と正確に指摘するアピールが出されたのは、時宜にかなったことだったと私は思う。


▼もう一つの見方として、吉田寮自治会の闘いの成果として「大学の指示を無視して新棟に住み続けた吉田寮生の居住を、条件付きではあるが大学に正式に認めさせた」という言い方もある。しかし「寮生の安全確保のため」に耐震性に何の問題もない吉田寮新棟からも出て行け—という京大執行部の従来の主張は論理破綻しており、そもそもその実現は困難だ。そこでむしろ逆に、「新棟からの全員退去強制はしない(できない)」というカードを、いずれ切らざるを得ないのであれば、できるだけ高く売りつけようとしているのが、今の状況なのではないか。


▼はじめから問題は「老朽化」「寮生の安全確保」ではなく、寮自治の破壊だった。大学の間違った指示に従うのではなく抵抗し、あくまで話し合いを求め続けた吉田寮自治会のこの間の闘いのおかげで、そのことを、彼ら自身が白状せざるを得ない状況にまで追い込んだ、と言うと言い過ぎだろうか。実際、「老朽化」が問題にされた現棟については川添副学長が「建築物としての歴史的経緯には配慮する。引き続き寄宿舎として使う」と言っており、吉田寮自治会との話し合いさえ行われれば、一定の合意を形成するのは、私には可能に思える。


▼逆にいえば、既に京大執行部でさえ、吉田寮は廃寮にはしない、建物は残すと言っている。そこまでは言わせることが出来たのだ。あとはそれが自治寮であるかどうかだ。京大執行部による管理か、それとも寮生による自治か。争点は明確になった。

 

▼もちろん、大学の自治をめぐっては、形だけ(になりつつある)とはいえ大学組織の意思決定過程に関与できる教員と、学生や市民達との間には、別の緊張関係がある。教授会自治ではなく、学生や職員も含めた大学自治へ。学生や教職員だけではなく、近隣住民や市民も含めた大学の自治へ。そういった実践を続けてきた吉田寮だからこそ、まさにその自治と自主管理の実践が、攻撃を受けている。


▼それはつまり、教授会自治さえ奪い、役員会などごく一部の人間によるトップダウンの大学運営を行おうとする者たちとの闘いであり、またそれを許している教員達との闘いでもある。その意味では、教員に過剰な期待は禁物だ。


▼役員会だけ、教授会だけ、教職員だけ、学生だけ、ではなく。近隣住民や市民も含めた大学の自治を、京都大学の場で作りだしていくために!それぞれの立場から、ともに闘おう!

 

ばらいろのウェブログが(その2)から(その3)に進化!

はてなダイアリー」が終了するのに伴い、全ての記事を「はてなブログ」に移行してみました。

上手くいっていますように!

トイレはどうあるべきかー「LGBTトイレ」や、「トランスジェンダーのため」「性同一性障害者に配慮して」のトイレではなく【GID学会】

来週末、3/24(土) 25(日)に東京で開催されるGID学会で、以下の報告をします。
報告では、関西クィア映画祭や以前の関パレ、クィア学会などでの事例に加え、いま大学当局による廃寮化攻撃を受けている京大吉田寮の全室個室トイレも紹介します。
GID学会での報告は、2008年以来10年ぶりかな。
私の報告は3/24(土)15:20〜16:20 の枠の「一般演題 1 : トランスジェンダーへの社会的支援」(第2会場/2F Terrace Room)です。
プログラムや日程表もダウンロードできます。
関東方面の方、交流しましょう!

トイレはどうあるべきかー「LGBTトイレ」や、「トランスジェンダーのため」「性同一性障害者に配慮して」のトイレではなく


LGBTトイレ」が意味不明で不適切なアプローチであることは、GID学会に参加している人には自明のことでしょう。
とはいえ、では具体的には、トイレとはどうあるべきでしょうか。


事実として、「男女という制度」はいまの社会に広範にあり、社会制度も建物構造も男女の二元論を前提として作られています。トランスジェンダー性同一性障害の当事者でも、「男女という制度」それ自体を支持したうえで、その制度内での人権や権利を主張する人たちがいます。他方、私のように、そもそも「男女という制度」や性別二元論それ自体を抑圧や人権侵害のカラクリだとみなし、「『男女という制度』を廃止すべきだ」「性別二元論自体をやめよう」と主張する人もいます。


実は私はこの二つのアプローチは当面どちらも必要なものであり、社会に対する運動の両輪であると思っていますが、ともあれ、こういった意見の違いが、ここ数年で解消するとは思えません。しかしその間も、私たちは毎日トイレに行きます。


LGBTのためのトイレ(って誰のためのトイレだ、一体。)」や、「トランスジェンダーのため」「性同一性障害者に配慮して」のトイレのあるべき姿を論じることがそもそも間違いの発端です。まず必要なことは、シスジェンダーに対する特別な配慮をやめること、シスジェンダーの特権をなくすことです。


上に見たとおり、性別についての様々な考え方が現に存在する今の日本社会において、性別という観点からできるだけ多くの人に公平なトイレとはどういうものなのか。イベントや集会や学会を開催するときに、一部の人の都合ばかりを優先させないためにはどうしたらいいのか。古い既存の設備しかないときにはどんな工夫ができるのか。


本来社会運動とは、現場での地道な取り組みの積み重ねです。最近では「派手に目立つこと」「メディアに取り上げられること」こそが「社会運動」であるかのような宣伝(プロパガンダ)が重ねられていますが、そんな権威主義的なものではない具体的な取り組みが、あなたの身の周りにはありませんか。
今回の報告では、具体的にどのような取り組みや代案が可能なのかを、関西でのいくつかの取り組み事例の紹介を通じて、提案します。是非、あなたの地域での具体的な取り組みについても教えてください。お互い知恵を出し合いましょう。