ばらいろのウェブログ(その3)

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第15回大阪アジアン映画祭に行ってきました

自粛ムードの中で、今年も大阪アジアン映画祭が開催されました。
せっかくなので、簡単に個人的な感想などを(^^)

 

『ミス・アンディ』

ネット上では意見が分かれていたので見に行きました。私には、何かよくわからない映画でした。
(どうしようもない不幸をリアルに描いた作品というなら、トランス女性作品ではないですが、『モンスター』の方が私は好きです。救いがない感じがリアルです。)
『ミス・アンディ』は、トランス女性を描いた作品との事でしたが、ベトナムからの移民のソフィアの物語としても、私は見てしまいました。
トランス女性といえばセックスワーカーばかりだとか、そういう批判もできはするでしょうが、それより、私は、監督の意図が読めないことが気になりました。このストーリーは、マレーシアで実際にあった出来事を映画化したのかな?もしそうなら、それにしても、あまり芸がない感じ。そして実話でないとすると、やはり、人が不幸になるネタをいくつか集めて、寄せ集めて、とにかく映画を作りたい人が映画を作ったのかな?と感じました。もしトランス女性に応援的な映画を撮るのであれば、このシーンは要らないのでは?というシーンもあって、「トランス女性が置かれる厳しい状況を描いた」では済ませられない印象でした。もしかしたら、主観的には監督はトランス女性を応援したかったのかもしれませんが、例えば以前に大阪アジアン映画祭でも上映した『女は女である』は、不十分なところがあるとはいえ、明確にトランス女性に寄り添おうとする意思がある事を感じたのとは、違いがありました。
最後に、この映画の邦題は、邦題をつける時に下手をうったのかと思っていたのですが、映画冒頭にも『Miss Andy』とバッチリ出てたので、監督の意図したタイトルなのでしょう。主人公は映画の中でもハッキリと「イヴォンと呼んで」と言っているのに、あえてトランス前の男性名アンディを冠する意図が、わかりません。タイトルに引きずられて、大阪アジアン映画祭での紹介文にも「アンディ」が使われていたのは残念。
 
 

『フォーの味』

『ミス・アンディ』の後に見たのが、『フォーの味』。これは、とてもよかったです。民族的マイノリティが、毎日の生活の中でどんな目に遭っているか、本当に分かりやすく、見せてくれました。
ひどい、それこそ厳しい状況を淡々と描くのですが、被差別側からの視点なので(そしてアジアンである日本人も被差別側に感情移入しやすいので)、上から目線の「かわいそうなマイノリティ」感はなく、サバイバルする姿として見せてきます。
そしてさらに、もう少し引いて考えて見ると、この映画の中でのバカなポーランド人達の一言ひとことは、日本でのバカな日本人の、例えば在日朝鮮人への、バカな(無知で無邪気な)一言ひとことと瓜二つです。身に染みる感じ。
ボブリックまりこ監督は福岡県出身の日本人との事ですが、日本に住むマジョリティとしての日本人にも、この映画を見てマジョリティとしての自身を振り返るきっかけになる事も意図しているのでは、と想像しました。
厳しい状況を淡々と描くからこそ、その中にある優しさ、他人への思いやりなどがじわっと染みてきます。肯定的なものに繋げていきたいという、監督の強い意志を感じました。本当に映画らしい、いい映画でした。

 

『メタモルフォシス』

少なくとも日本では既に使われない「真性半陰陽」の言葉が映画内で出てきたり、最近はあまり使われない用語「インターセックス」の映画として紹介されているなど、やや警戒しながらの鑑賞。学校とかキリスト教とか、以前見たフィリピン映画の『ビリーとエマ』と設定がやや似てるなと思って見始め、だんだん引き込まれていった。
この作品の最大の強さは、主人公アダムのたくましさ。本当に強い。終盤、プロム(ダンスパーティー)にスカートを履いていくとかは、クィアに寄りすぎていて実際にはなかろう、という印象と、両親にも友人にも受け入れられて本人もあれくらい強いなら、今どきの若者ならあり得るとも思わされるストーリーで、せめぎ合う感じ。
映画の中で、「アメリカでは(本人の意思とは無関係に勝手に手術された事に)抗議も起きている」などのセリフが出てきて、米国での当事者達の闘いの歴史と成果に、こんな形で映画の中で触れられたことが新鮮だった。
インターセックスというアイデンティティを用いるかどうかは、地域性や個人的な状況によってもいろいろで、一般的な言い方ではなんとも言えないところ。
ただ、ラストシーンで、外性器を明示的に映す必要はなかったのではないか。身体も受容したアダムの強さとして自然にみせたかったのかもしれないが、そこまで強くあれるものなのかな。私には、非当事者の覗き趣味に応じてしまった(インターセックスを見せ物にした)と感じられた。その点が残念。

 

『家に帰る道』

とても良かった。映画の力を感じる映画だった。性的な暴力があった時、それが単に加害者と被害者の間の出来事に留まらない影響が実際に出てしまうという現実に、ちゃんと向き合って描いた映画だった。また、本当に良心から被害者の事を思う近親者男性のウザさとか、被害者が「典型的な被害者」を演じさせられかねない現実とか、サラッと描いている。そしてこの作品も、主人公のジョンウォンの主体性が強く描かれ、「被害者萌え」として搾取できないくらいだったのが、とにかくよかった。
具体的に何があったのか、ジョンウォンは夫に「あなたには話したくない」と言って話さない。夫は、話してもらえない事実を引き受ける。【事で、被害を分有する。(※昨夜寝る前に勢いで書いてけど、やっぱりちょっと違う気がするのでここは削除。一文を後に追加。3/16)】お互いが別の人生を生きていることを明確化しながら、しかしそれでもつくられ続けられる人間関係は、心地よい。
1人でも多くのひとに観て欲しい映画。

 

『君の心に刻んだ名前』

映画前半の、若い男の子達の暴力的な文化やコミュニケーションのやり方が、本当に心の底から私は嫌いなんだという事を、改めて確認させられた映画。男は全員去勢したらいい、とすら言いたくなる。前半は、嫌悪感しか感じなかったくらいだ。ただ、後半のストーリー展開を見たら、監督の意図は理解出来たので、それ以上は言わない事にします。
ゲイの擬装結婚を描くといつも妻の描写が最悪でウザすぎる事が多々あるけど、そこも最低限はクリアして、少しは時代が進んでいる事もわかる。
しかし、男性特権にも向き合うゲイ男性の映画には、いつ出会えるんだろうか。