日本で「Black Lives Matter」を掲げる時に、私が悩んでいること

日本で「Black Lives Matter(BLM)」が話題として取り上げられている時、それは「米国が日本の宗主国だから」「米国が世界的な帝国主義国だから」、だから日本で米国の問題が大きく取り上げられる、日本人が米国の問題であるBLMに関心を持つ、という側面が実際にはあります。
米国以外の国での民衆の闘い、例えばボリビアの先住民の闘いや、アフリカ諸国の鉱山での黒人の生きるための闘いは、いずれも世界規模の帝国主義植民地主義によって作られてきた現実への異議申し立てであるとも言えますが、BLMのように日本で広範な関心を持たれることは、あまりありません。
(ちなみに、ラテンアメリカにおける先住民の闘いは、規模も大きく歴史も長く質的にも重要というかホントに深いので、勉強してみることをオススメ。)

 

そしてさらに、日本の帝国主義植民地主義の歴史的産物でもある朝鮮人への差別は、米国で米国の奴隷制の結果である構造的黒人差別が関心を持たれにくいという事実と同様の構造的な理由により、日本国内では関心を持たれません。どちらも、国家や社会の成り立ちの根幹を差別で賄った歴史があり、現在もその差別が合法的に制度化されていると言えます。
(ちなみに書いておくと、在日朝鮮人は未だに参政権が剥奪された状態にある。日本国憲法の秩序は、在日朝鮮人への差別を制度化した秩序である事を、日本の左派は一貫して無視し続けている)

 

もしBLMを米国国内問題としてみるのではないのなら、つまりBLMのグローバルな、世界的な展開を考えるなら、それは、米国の奴隷制を創りだした米国の帝国主義、米国の植民地主義の歴史に反対する事を意味するはずです。
そしてそれは、「英語ができて当たり前、英語が国際語」「米国の出来事に、世界が関心を持って当然」みたいな形でも現れる、現在の米国帝国主義や米国中心主義への反対も意味するはずです。
(もちろん、「米軍が日本に駐留したり、米軍基地が沖縄に居座るなどの、現在進行形の米国帝国主義的状況」に対して、明示的かつ積極的に反対することも、そこには含まれるはずです)

 

だからこそ私は、米国帝国主義にも反対する立場から、「BLM運動は、世界にたくさんある闘いの中の一つに過ぎない」という形で、積極的に限定化と相対化を引き受ける事/課す事こそ不可欠だ、と考えています。しかし同時に、とはいえ、限定化と相対化は「all lives matter」のように、結局は黒人差別の固有の文脈を消すために使われやすいし、実際に米国でそう使われてきたという事実があるからこそ、あえていま「Black Lives」と掲げられているのだとも、認識しています。

このような状況下で、日本でBLMを扱う時に、現在の米国帝国主義をなぞる事にならず、日本の植民地主義を問うことを避けず、かつ黒人固有の課題に焦点を当てる、ということをするために、どんな事に気をつけたらいいのか。
ぜひ意見を聞かせて下さい。ちゃんと意見の交換をしたいです。

 

参考資料

wezz-y.com

 



上記の文章は、
WEB講演会「日本におけるブラック・ライヴズ・マター(黒人の命を尊重しろ※)運動を考える」
https://www.kyoto-seika.ac.jp/news/2020/0708.html
の参加申込みにあたって、質問があれば書いてとあったので書いてみたら長くなった文章ですw
でも、いまこの件で私が考えていることが短くまとまっています。

ぜひあなたの意見を、コメント欄に書いてください。