ばらいろのウェブログ(その3)

ひびのまことの公式サイト→ https://barairo.net/

Fプロ:BOTH〜インターセックスとバイセクシュアル

 最終日、満員御礼。ステキな最終日でした。会場も良い感じで、参加者同士での話も弾んだようです。Latitude☆Pのスタッフの皆さん、ハードスケジュールのところをバッチリセッティングもしていただき、ありがとうございました。スナックもおいしかった♪
 BOTHですが、何度見ても新しい発見がある映画です。今回特に思ったことは、次のようなことでした。
 レベッカにとって勝手に手術されたことはもちろんひどい話で、不当な暴力です。加害行為以外の何ものでもありません。まずそのことを大前提として踏まえた上で、その加害行為を行い、今同じ状況になったらまた手術をすると開き直っているレベッカのお母さんの側には、全く悪意がないという事実です。悪意どころか、本当に(主観的には)レベッカのためを思って、レベッカのためにこそペルーでの生活を捨ててまで、手術をした訳です。つまり、加害/被害の関係と、悪意/善意の問題が完全に別のものである例として、レベッカの例があります。
 「悪意があるから、悪い」(その逆として「善意だからいい/やむを得ない」)という風に言えないとしたら、どうなるのだろうか。自分と他者との人間関係のルールは、どういう風に引き直されるのだろうか。つまり、自分が善意で行っていることでも、相手に対する加害行為になり得るという事実を踏まえて、「私たち」はどういう対人関係を持てるのだろうか。「公的な場」が創られる契機がここにあると思いました。
 日本語字幕の監修もお願いしたコヤマエミさんが、自身のことをリベラリストと名乗り、常に自分の位置と論争相手の位置・立場とを入れ替えて、かつそのどちらの側にとっても納得のいく合意を見つけようとする姿勢の理由の一つがここにあるのかも、ということを思いました。(話のテーマとしては、親による障害者殺しというテーマで、特に目新しいテーマではないのですが、今回はそこに私の関心が向いた、ということです。勝手に人のことを決めつけていますが、許してね)
 ちなみに参考までに書くと、私自身の経験からは、自分にとって都合の良い政治的目的のために利用主義的にしか民主主義を使わない左翼への批判(運動内部で、敵だと見なした人への二重規範の適用が正当化されることへの批判)から、似たような趣旨の態度を私も取るようになっています。自分の立場からの正義にしか関心がないご都合主義左翼(正確には左翼に限らずご都合主義的な態度)には、もううんざりです。