ばらいろのウェブログ(その3)

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「吉田寮は廃寮ではないが自治は容認できない」京大執行部が主張

京大執行部が2月12日に吉田寮に対する方針を発表し、記者会見を行いました。

この記者会見は、以下のように報道されました。

以下のテキストは、上記の京大執行部の方針を批判する「吉田寮問題にかかわる教員有志緊急アピール」に賛同する際に、メッセージとして付したものです。

 

なお、本日2月20日吉田寮自治会は「吉田寮の未来のための私たちの提案」を発表し、山極総長・川添理事宛に「表明ならびに要求」を提出しました

吉田寮自治会の「提案」「表明ならびに要求」は、現時点で出せるほぼベストの内容だと思います。吉田寮自治会、あなどりがたし。

 

 


 

吉田寮は廃寮ではないが自治は容認できない』京大執行部が主張」
「居住する条件は『自治を行わないこと』誓約が必要」
自治をやめれば住み続けてもいい 京大執行部が条件」


一般紙であっても、本来、新聞の見出しはこうあるべきだった。

 

▼川添副学長でさえ、これまでは曲がりなりにも「吉田寮生の安全確保」こそが目的だと言ってきた。しかし2月12日に京大執行部が発表した吉田寮に対する方針(と川添副学長の記者会見)は、吉田寮で行われている自治・自主管理や吉田寮自治会それ自体を解体することを、彼らが意図していることを宣言したものだった。少なくとも、吉田寮自治会と京大執行部の双方の主張を追ってきた者にとっては、今回の京大執行部の方針を直接読めば、それはあまりに明らかだった。


▼にも関わらず、新聞各紙の見出しは「京大、吉田寮新棟の居住認める 退去問題で一部方針転換(京都新聞)」などと、事実とは異なるイメージをつくり出すものだった。実際に私の友人も、新聞記事だけを読んで「吉田寮に今後も住み続けられるみたいだね(ハート)」などと言い出す人までいた。京大執行部による印象操作が、実に上手くいっていた。


▼そんな状況だったからこそ、この間の京大内部でのいきさつを知る教員達から『大学執行部の本当の狙いが「寮生の安全確保」ではなく、自治寮としての性格の解体である』と正確に指摘するアピールが出されたのは、時宜にかなったことだったと私は思う。


▼もう一つの見方として、吉田寮自治会の闘いの成果として「大学の指示を無視して新棟に住み続けた吉田寮生の居住を、条件付きではあるが大学に正式に認めさせた」という言い方もある。しかし「寮生の安全確保のため」に耐震性に何の問題もない吉田寮新棟からも出て行け—という京大執行部の従来の主張は論理破綻しており、そもそもその実現は困難だ。そこでむしろ逆に、「新棟からの全員退去強制はしない(できない)」というカードを、いずれ切らざるを得ないのであれば、できるだけ高く売りつけようとしているのが、今の状況なのではないか。


▼はじめから問題は「老朽化」「寮生の安全確保」ではなく、寮自治の破壊だった。大学の間違った指示に従うのではなく抵抗し、あくまで話し合いを求め続けた吉田寮自治会のこの間の闘いのおかげで、そのことを、彼ら自身が白状せざるを得ない状況にまで追い込んだ、と言うと言い過ぎだろうか。実際、「老朽化」が問題にされた現棟については川添副学長が「建築物としての歴史的経緯には配慮する。引き続き寄宿舎として使う」と言っており、吉田寮自治会との話し合いさえ行われれば、一定の合意を形成するのは、私には可能に思える。


▼逆にいえば、既に京大執行部でさえ、吉田寮は廃寮にはしない、建物は残すと言っている。そこまでは言わせることが出来たのだ。あとはそれが自治寮であるかどうかだ。京大執行部による管理か、それとも寮生による自治か。争点は明確になった。

 

▼もちろん、大学の自治をめぐっては、形だけ(になりつつある)とはいえ大学組織の意思決定過程に関与できる教員と、学生や市民達との間には、別の緊張関係がある。教授会自治ではなく、学生や職員も含めた大学自治へ。学生や教職員だけではなく、近隣住民や市民も含めた大学の自治へ。そういった実践を続けてきた吉田寮だからこそ、まさにその自治と自主管理の実践が、攻撃を受けている。


▼それはつまり、教授会自治さえ奪い、役員会などごく一部の人間によるトップダウンの大学運営を行おうとする者たちとの闘いであり、またそれを許している教員達との闘いでもある。その意味では、教員に過剰な期待は禁物だ。


▼役員会だけ、教授会だけ、教職員だけ、学生だけ、ではなく。近隣住民や市民も含めた大学の自治を、京都大学の場で作りだしていくために!それぞれの立場から、ともに闘おう!