ばらいろのウェブログ(その3)

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【お願い】日本の左翼や社会運動の問題点/不十分点を指摘するために、朝鮮学校に在特会が押し掛けた事件をネタに使うのをやめてもらうことはできないでしょうか


※この記事は、「在特会と通じる性質を見せる「反在特会」の取り組みと、「上から目線のエセインテリ」」への応答です。
※併せて「私の友人に手を出すな! -簡単な集会報告と雑感-」もお読み下さい。




 警察に安易に頼ることや、警察を信用してしまうことの危険性、警察に「守られた」ことを、手放しに歓迎し、喜んでしまう人もいるという問題、これらは確かに大切な問題だと思います*1
 「酷い連中は、法を侵害する連中は、どんな扱いを受けても仕方がない」というような発想が、在特会に反対する運動の中にもあるかもしれない、という指摘。これも大切で重要なことだと思います。
 「自分たち」を絶対視し、法や警察を使って異質な存在の「侵入」を排除しようとするのは、まさに在特会の行動原理そのものでしょう、という意見にも、一般論としてですが、もちろん私も大賛成です。
 macskaさんが書いているような危惧や批判は、私自身がこれまでずっと、日本の社会運動の内部で言い続けてきている内容ととても近いですし、そのような事を言いたくなる局面にも、私も何度も直面しています。



 しかし、私はそのことよりも、もっと気になることがあります。
 上に書いたようなことについて、議論したり考えたりすることは、実はみんな結構大好きなのです。はてなブックマークのコメントが大盛況であることも、そのことを分かり易く示しています。だって、それは、日本人の運動にとって、直接の利害があるテーマなんですから。日本人にとっては、「在特会が今後初級学校に来ない状況を本当に実際にどうやって作るのか」「民族学校が置かれている厳しい状況をどうやって日本の人に伝えるか」「どうやって日本社会の中の日本人中心主義に反対するのか」を考えることよりも、日本の社会運動の内部にある問題について考えたり議論したりすることの方が、楽しいのです。


 今回の在特会による押しかけ事件は、「実際に顔と名前を持つ被害者」が存在する事件です。だからこそ被害者の人たちの事情や都合こそが話題の中心にあるべきだし、関連する諸問題は、できる限りその中心テーマに具体的に取り組む過程の中で扱われるべきだと思います。
 先のエントリーにも書きましたが、京都朝鮮第一初級学校に在特会が押し掛けた事件をネタにするのなら、私は、まず何より「朝鮮学校の状況を改善すること」こそが話題や関心の中心になるべきだと思っています。そういった観点から、例えば「どうやってまた在特会朝鮮学校に来るのを防ぐか」について、いろんな意見やアドバイスが欲しいし、どんな取り組みが出来るかを私は話したかったです。


 朝鮮学校は話のきっかけのためのネタにだけ利用されて、結局「朝鮮学校固有の問題」は関心を持たれず、また無視され不可視化され、後回しにされるのか。某MLへのmacskaさんの最初の投稿と、そしてその時に予想した通りの議論の盛り上がりと成り行きを見て、実は、私はそういう感想を抱きました。某MLで「どうやって民族学校を支援するか」で議論が盛り上がったことが一度でもあったでしょうか。イダさんとのやりとりに時間を割く事はそんなに大事なのでしょうか。
 イダさんやmacskaさんにはそういう意図があるわけではないとは思います。でも、その意図がどうであれ、結果的に、「朝鮮学校固有の問題」ではなく、「日本人の運動の問題点」の方に人々の関心が向いてしまうことは、事前に容易に想定できる事ではないでしょうか。
 私は「サバイバーはフェミニズムのネタにしか過ぎないのか」と言った高橋りりすの言葉を、思い出しました。




 私がこういう思いを抱くのには、もう一つ理由があります。
 例えば12/22の京都の集会の入口にも、「在特会関係者や集会の趣旨に反対する人の参加をお断りします」といった趣旨の掲示が、集会主催者によって掲示されていました。「在特会は敵だ、あいつらを包囲してやっつけよう」みたいなことしか考えていない人には、何ともない当然のことかもしれません。でも、こういう掲示を、本当に複雑な思いでかみしめている人は、おそらく、あの集会会場には少なくない数、いると私は信じています。もしかしたら、主催者の中にも、思いをかみしめている人がいるかもしれません。在特会を自分たちとは別の異質な存在として自分たちと切り離してしまったり、在特会に対して怒ることで「自分は良心的な日本人だ」というアリバイを作るような発想に対して抵抗していくことは、まさにいま「私たち」がやっていることです。在特会を私たち自身を映す鏡として、「私たちの中にある排外主義」を本当に問おうとするのであれば、単に在特会を場から排除することでは何の解決にもならないことは、あまりに明らかです。
 しかし一方で、今ここに生きる1人1人が、とても敏感になっています。民族差別を問う運動を主体的に創ってきたわけではない私の個人的な人間関係の中でも、今回の在特会の事件に対してとてもナーバスになっている人が複数います。朝鮮学校への襲撃を許してしまった、という事実に、本当に痛みを感じている人もいます。そしてその痛みを理解できる人と出来ない人がいる、という事実にも向き合わされ、しんどい思いをしている人もいます。この状況の中で、在特会のメンバーも含めて話の出来る場を創るというコストを引き受けるのは、簡単なことではありません。
 わざわざmacskaさんに言われるまでもなく、「私たち」は(少なくとも私は)この京都の地で、22日の掲示のようなものを無くすために、対話をする可能性を広げようとしています。「在特会のメンバーであるというだけで、あるいは在特会の思想に賛同するからといって、公共の施設から排除するべきだ」という考え方に反対できる仲間を増やすためにこそ、努力しています。それは、外部から見たら不十分なもので遅々たるものかもしれません。しかし、「私たち」のテンポとやり方で事を進めるのを認めて貰えませんか。


 macskaさんは、インターセックス/DSDの話をする時によく、「その地域及び周辺の当事者の声が反映されることが望ましい」と言われます。そういった態度がとても重要だということを、まさにmacskaさんの言説によって、私は学びました。
 それでもどうしても東京の集会のことが気になるというのなら、集会主催者や、もしくは件の報告メールを書いた前田さんとこそ、まず、直接やりとりをしてみてはいかがでしょうか。もしくは、実際に今回の事件について考え取り組んでいる人達の中にも、macskaさんの言われるようなことを考えている人は必ずいるはずです。そういう人達のやり方とテンポを尊重しつつ、影からそういう人達を応援するようなことをしていただくことは出来ないでしょうか。


 私は、macskaさんの意見に反対だからこういう事を言っているのではありません。該当記事も、内容的には、賛成できる部分も多いからこそ、気になるのです。
 以上、私からのお願いです。

*1:街頭での情宣活動や企業への様々な抗議行動、例えば団交を求めて労組が企業前で活動する時など、「威力業務妨害」を口実に逮捕され弾圧されてきたのは、他ならぬ「私たち」です。それと同じ事をせよ、と警察に求めるということがどういう事か、ということ