ばらいろのウェブログ(その3)

ひびのまことの公式サイト→ https://barairo.net/

私の友人に手を出すな! -簡単な集会報告と雑感-

 「朝鮮学校への攻撃を許さない!12・22緊急集会―日本社会の排外主義を問う―」は、主催者発表600人、私の実感でも、数百人の参加があり、会場は満席、立ち見座り見が多数あり、資料も不足し、会場カンパも20万円以上集まったようです。これだけ短期間の広報、(休日前日とはいえ)年末の平日夜の集会であるにもかかわらず多くの人が集まったことは、今回の事件に対して強い思いを持っている人が多数いることを私自身でも感じることが出来、素直に良かったと思います。
 昨日のブログでこの集会のことを「この事件に対する抗議集会」と私は書いていました。これは、「この集会は、取りあえず集まって抗議する場」という内容のものになるだろうという直感からだったんですが、この点については私の予想を裏切って、少なくとも集会主催者が、集会サブタイトルの通り「日本社会の排外主義を問う」というところまでを目指していたことを、感じることが出来ました。
 集会では、朝鮮学校を紹介するビデオ、在特会が押し掛けてきたときの映像が流され、また、京都朝鮮第一初級学校の校長先生、同オモニ会の方、在日韓国青年同盟京都府本部の人、そして他の京都の様々なグループ等のメンバーの発言が続きました。それらは、ただ単に在特会を非難するようなものではなく、民族学校が自分にとってどういうものかを伝える声であったり、現に日本社会に存在する民族差別と闘うことの必要性を伝えるものでした。



 実は私もこの在特会の押し掛け事件の後、今月初めに、友人の呼びかけに便乗して初めて朝鮮学校を訪問する機会がありました。訪問した朝鮮学校では、体育館もなく、もちろんプールもなく、日本の小学校とのあまりの違いをリアルに実感しました。その明らかに古い校舎は、私が小学校時代に通っていたオンボロ校舎を思い出させるものでした。最近の京都の小学校がどんどん綺麗な建物になり設備が充実している(ように見える)のと比べて見て、本当に日本の学校は、日本政府と日本社会によって厚く厚く守られているんだ、ということを実感しました。22日の集会でも「国庫からの助成が得られるような小学校に転換しようとすれば、とたんに民族教育が不可能になる」という状況こそが日本の民族差別だという趣旨の発言がありましたが、まったくその通りだと思います。日本に住む在日朝鮮人朝鮮語での民族教育を行うのは、多文化・多民族の社会を創るという観点からは当然の権利であり、日本政府はそれを支持・支援する責任があります。でも、実際に日本政府がやって来た/いることはそれとは正反対のことばかりです(例:学校閉鎖令とは。阪神教育闘争とは?)。


 今回の事件と訪問以降いろいろ考えているのですが、もし今回の在特会の事件を扱うのであれば、その目標は、まず在特会が再度朝鮮学校に押し掛けてくることを防ぐこと、そして朝鮮学校がより充実した教育が出来るようにしていくこと、だと思います。在特会が来て騒いだおかげで、結果的に朝鮮学校に支援が集まり、また民族教育の重要性が社会に認知されるようになった、というような状況を創ることこそが、(対在特会という観点からも)大切なんだ、と感じています。
 在特会について言うと、私は、「在特会に反対することは、『私たち』の闘いの中心にはならないし、なってはならない」「仮に万が一、在特会に反対する闘いが高揚して、在特会を『包囲』して、解散に追い込んだとしても、そのことによって日本国内の民族的マイノリティーが置かれている差別的状況が改善する訳ではない」「『私たち』がしなくてはいけないことは、在特会に反対することではなく、実際に日本にある民族差別を無くすこと」だと思っています。そして、6/13の京都での在特会のデモ以降、そんなことを機会があった活動家などと話してきました。確かに在特会は「強烈」です。しかし本当の意味で怒るべき対象は「在特会」ではなく、民族教育を保証するのではなく弾圧し、在日朝鮮人への差別政策と朝鮮民主主義人民共和国への敵視政策を現在も実践し続けている日本政府であり、その方針を支えている「私たち善良な日本人」のマジョリティーとしてのあり方だと思います。
 今回の事件について考える時は、在特会に対する直接の怒りに引きずられるのではなく、むしろ今回のことをきっかけにして朝鮮学校の置かれている状況を少しでも改善することにこそ、焦点が当てられるべきだと、一層感じます。


集会アピール


●以下に原文あり
http://www5d.biglobe.ne.jp/~mingakko/sasaerukai091222api.htm


【ひびののコメント】
アピール文案のうち、「『在特会』はほんのひと握りの集団であり、大多数の日本人は彼らに同調しているわけではありません」の部分には、わたしは同意しません。


私の友人に手を出すな!

集会で配布されていた幾つかのメッセージのうちの一つです。

<<朝鮮学校への攻撃を許さない!12・22緊急集会>>へのメッセージ
(板垣竜太)


 在外研究でボストンに来ている関係で、本日の集会に参加できませんが、いてもたってもいられず、メッセージを送らせていただきました。

 在特会らによる攻撃の様子をビデオ、メール、電話を通じて知り、身が震えるような憤りを感じました。真っ昼間に公然とレイシスト的な集団行動をくり広げるかれらの言動は、明らかに一線を越えたものがありました。これを許せば、次には何があるか分かりません。歴史が私たちに教えてくれるのは、こうした突出した動きを許容することが、ファシズムレイシズムを蔓延させてきたということです。決して許すべきではありません。


 かれらが「特権」とよんでいる公園については、ただでさえ道路工事にともなって、利用が困難な状態においこまれてきました。そんな状況で、かろうじて確保してきた、ほんのちっぽけな空間ですら、かれらは「特権」だとして奪い去ろうというのです。


 かれらの言動があからさまにひどいので、多くの日本人は「こいつらとわれわれは違う」と思うでしょう。ですが、レイシスト的な言動さえしなければ、自動的にレイシズムへの荷担から免れるという話にはなりません。「ひどい」と思うだけで何もしなければ、レイシズムと暗黙の共犯関係を結ぶことになります。


 私は、これが単にごく一部の特殊な連中の動きだとは思っていません。運動場が確保され、国庫からの助成が得られるような小学校に転換しようとすれば、とたんに民族教育が不可能になるような、そんな日本の制度的な制約のなかで起きていることです。また、人種差別撤廃法が存在しない国で起きていることです。マスメディアが「北朝鮮」バッシングを煽る状況で起きていることです。ですから、今回の事件を一部の輩の問題としてだけ片付けたとすれば、そうした、より大きな問題が見えなくなってしまいます。むしろ、今回の事件は、そうした構造的問題を問い直す機会にすべきだと思います。


 かつてフランスで移民排斥を声高に主張する新右翼が台頭してきたとき、それに反対する市民団体が掲げた有名なスローガンがあります。「私の友人に手を出すな!」非常に簡明で力強いことばです。ただ、「友人」ということばは、単に仲がよいとか、同じ国に住んでいるという程度の意味で理解してはならないと私は思います。植民地支配の時代から続くレイシズムの構造に立ち向かって、はじめて、かろうじて発することのできる言葉ではないかと思います。そのような意味をこめて、最後に申します。


 私の友人に手を出すな!


http://www5d.biglobe.ne.jp/~mingakko/sasaerukai091204gekirei.mht


※上記アドレスは、htmlファイルではなく「mht」という形式のファイルになっています。これは、WindowsIE専用のファイル(またか!)で、Macや他のブラウザでは通常は読めません(怒)。ただ、専用のアドオンをインストールすれば、MacでもFirefoxでは見れるようです。(Safariも見れるらしいけど、面倒だよ〜)

【ひびののコメント】
「私の友人に手を出すな!」というのは、感覚にもピッタリ来るし、いいスローガンだなと思う反面、(板垣さんのメッセージにも書かれているが)危惧もある。それは以下の二点。

  1. 話者である「私」が無垢で無実な人であるという、事実とは異なる認識を持っていても、このスローガンを言うことが出来る。自身の「マジョリティーとしての特権」を問う視点は、このスローガン自体に含まれていない。
  2. 仮想敵(今回は在特会)の存在や行動を「私たちのあり方」とは全く異質なものとして切って捨ててしまえる鈍感/傲慢なあり方への危惧。「敵」の主張には耳を傾ける必要はなく、「敵」には「自分たち」とは異なる二重規範を適用してもいいという発想に基づいていてもこのスローガンを言えてしまう。(これは、方向を逆にすれば、「違法外国人を叩き出せ」という在特会の発想方法や、「テロリストには人権はない(→グァンタナモ収容所は必要)」という発想と同じ。「過激派」への死刑重刑攻撃を支持したり、暴力団新法やオウム真理教への国家による弾圧を黙認することとも同じ。私はこういった発想方法にこそ抵抗したいので、気になるの。)

こういった限界も気にはなりつつ、でも、とりあえず今回はエントリーのタイトルにしてみた♪

●09年12月23日付け京都新聞