ばらいろのウェブログ(その3)

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男性特権やバイ攻撃・同性愛者中心主義そして人種主義を容認しない「私たちの場」を創るために必要なことは何か〜バトラーの受賞拒否と伏見憲明問題から「責任」を考える【クィア学会】【伏見問題】

 今年も11月にクィア学会の研究大会があります。
 昨年は、伏見憲明さんが不適切なクレームをつけたおかげで幾つか混乱があったようですが、今年はどうなるでしょうか。
(伏見さんがクィア学会につけたクレームについては、当然ですが、全て却下されました。言いがかり的なイチャモンを付けても無駄だということですw)
 伏見さんには、せっかくなので釈明の機会を与えてあげようと思って「一緒にパネルをしませんか」と提案してみたのですが、受け取り確認のお返事も頂いていません。伏見憲明さんは最低限の礼儀もわきまえない人だということを、改めて確認できました(笑)


 さて、今年も、この大会で発表を行います。タイトルは標記の通りで【男性特権やバイ攻撃・同性愛者中心主義そして人種主義を容認しない「私たちの場」を創るために必要なことは何か〜バトラーの受賞拒否と伏見憲明問題から「責任」を考える】です。発表の概要は、以下の通りです。まだ、学会事務局からの発表はありませんが、先行して宣伝しておきます!


※発表の正確な時間や会場の詳細は、学会事務局から発表されてから改めて掲載しますので、しばらくお待ち下さい。

(1)タイトル
男性特権やバイ攻撃・同性愛者中心主義そして人種主義を容認しない「私たちの場」を創るために必要なことは何か〜バトラーの受賞拒否と伏見憲明問題から「責任」を考える


(2)名前
ひびの まこと


(3)所属
ばらいろネット(http://barairo.net/


(4)要旨(200-300字)
 今年6月、ジュディス・バトラーさんは「人種主義的意見を容認している」とベルリン・パレードからの受賞を拒否した。他方、男性特権への無関心やバイ攻撃、同性愛者中心主義など権力指向の言動を繰り返して来た伏見憲明さんをクィア学会の設立大会でパネルに呼びながら、その場で本人への明示的な批判をしなかった(らしい)学会側パネラーや参加者もいる。
 バトラー云々の前にすべき事があるのではないか。
 男性特権やバイ攻撃・同性愛者中心主義そして人種主義を容認しない「私たちの場」を創るために必要なことは何か。クィア学会を「学者の集まり」にしないため、アカデミック体裁を取らず、敢えて活動家としての問題提起を行う。


 まず、この問題点は伏見憲明さんに限った問題ではありません。「男性特権やバイ攻撃・同性愛者中心主義そして人種主義」は、「私たちのコミュニティー」にも実に頻繁に見られます。「東京プライドパレード」の中での問題はいろんな方向から声も出ているようですし、さかのぼると「レズビアンゲイ・パレード」という不適切な看板を掲げることを主張した砂川秀樹さんの思想信条の問題点にも行き当たります。関西とは違い、特に東京方面では、【男性特権やバイ攻撃・同性愛者中心主義そして人種主義】を容認する立場の方こそが多数派/主流派になっていると感じるときさえあるので、変えていくのはなかなか大変そうですね(笑)
 そして、クィア学会という場で考えるべき事は何か。昨年は、伏見憲明さんの言動が「男性特権やバイ攻撃・同性愛者中心主義」であることを自明の前提として確認したで、「マジョリティーとしての責任」の一般的な話をしました。今年は、もう少し踏み込んで、「男性特権への無関心やバイ攻撃、同性愛者中心主義など権力指向の言動を繰り返して来た伏見憲明さんをクィア学会の設立大会でパネルに呼びながら、その場で本人への明示的な批判をしなかった(らしい)学会側パネラーや参加者」の主体性の問題点の方に焦点をあてることができればいいな、と思っています。できるかな?


 例えば、「吉野家でゲイカップルに牛丼を投げた人」や「それを容認している吉野屋」「アメーバブログ」を批判することは、(それはそれとして必要なことですが)実はそんなに大変なことではありません。日本にいながらベルリンプライドの問題点を指摘したり、受賞拒否したバトラーを評価することも、(必要な取り組みではあるものの)全然大変ではありません。いずれも、そういった批判をすることで、批判者が危険に曝される可能性が極めて低いからです。友人でも知人でもない人や、知らない遠くに住んでいる人を批判することは、実は本当にたやすいことなのです。
 しかし、です。自分の目の前に実際に存在する暴力や差別に反対することや、友人・知人の間違った言動を批判することはとても大変です。なぜなら、その批判は、直接自分の生活の安定や快適さに跳ね返ってくるからです。そして、実はそれこそが大切で必要なことです。
 斉藤正美さんが船橋さんを批判する文脈で書いていますが、もし本当に社会を変えることを引き受けるのであれば、「自分が関わったこと、してきたことの責任を問う」事こそが全ての核心であり中心であって、その部分に目をつぶって、何かいいことをいっても、ダメです。
 最近はどうも誤解している人が多いのですが、社会を変える、ということは、権力を持った人を批判する、ということを意味します。言い換えると、自分の身を何らかの形で危険に曝すこと、危険に曝してでも言いたいことがある、ということです。労働組合の活動家が殺されたり、人権運動の活動家が逮捕されたり、そういうことは(もちろん良くないことですが)よくあることです。不正と闘う、ということは、実は「自分が危険を引き受ける」そういうことなのです。
 その意味で、「伏見憲明さんをクィア学会の設立大会でパネルに呼びながら、その場で本人への明示的な批判をしない」ような人は、社会的に肯定的な評価を受けたり、社会的な影響力を持ったり、してはなりません。もし今後、クィア学会というものが存続していくのであれば、「目の前の差別や暴力は批判せず、遠くの人の批判はする」「自分の身の安全が確保される時(=自分の方が権力を持っていて社会的に守られている時)だけ、発言する」ような主体のあり方を批判的に確認し、また、そういう「甘い主体のあり方(学者的な文化、といってもいい)」をクィア学会から無くしていくことこそが、必要です。


 実際に「私たち」の中にある性的な暴力や女性差別がいっこうに可視化せず改まらないのも、「目の前の差別や不正」に目をつぶる人が多いからです。と、あえて書いておきます。
 まだ目に見えぬ同志たちよ、共に闘わん。