ばらいろのウェブログ(その3)

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関パレって「LGBTと支援者」のパレード、じゃないの?

 関西レインボーパレードは「性の多様性をお祝いするお祭り」です。しかし幾つかの所で、関パレのことを「LGBTと支援者のパレード」と説明しているのに出会い、ちょっと残念に思いました。関パレの実行委員からは、「LGBTと支援者のパレード」という言い方は実行委員会ではしていない、と教えてもらいました。
 「私たち」のことを、どういう言い方で表現するのか。多分いろんな人が、いろいろ悩みながら、試行錯誤しつつある状況なんだと思います。私は、「LGBTと支援者」という認識枠組みは、とても嫌いです。その理由を簡単に説明します。
 この認識枠組みがよくないと思う理由は、2つあります。一つは「LGBT」というラベル、もうひとつは、「…と支援者」という発想です。

なぜ「LGBT」がダメなのか

 歴史的には、「レズビアン&ゲイ」みたいな言い方で「私たち」を表象するのが流行っていたころ、「その言い方が同性愛者中心主義で良くない」という意味で、明示的に「同性愛者ではないセクマイ」を可視化する意図で「LGBT」を使ったこともあります。その当時においては、「同性愛者中心主義」への抵抗として、一定の意義のある言葉ではありました。しかし、今の時代にLGBTを使うことは、以下のような弊害があります。
 ・最近は、性別二元主義に依拠する「バイセクシュアル」という言葉よりは、「パンセクシュアル」などのほうが流行り。
 ・最近は、アイデンティティー語として公的に可視化している語としてすら、最低限「Aセクシュアル」「クエスチョニング(模索中)」「クィア」「インターセックス」などがある。
 ・上記の通り「私たち」は必ずしもレズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーといった、分かりやすい言葉にアイデンティファイしている訳ではない。にも関わらず、特定のアイデンティティー語を用いることは、そのアイデンティティーを持つことを結果として促し、またそのアイデンティティーを違和感なく引き受けている人たちを特別に優遇することに繋がる。
 ・アイデンティティー語を看板として使うことには、「レズビアン&ゲイ」と掲げた時の問題点と同じ問題点を持つことが避けられない。アイデンティティー語を用いて集まると、必ず「中心となるアイデンティティー」が形成され、しかもその線引きをどこにするかが問題となる。
 ・その弊害を避けるためにも、アイデンティティーや属性で集まるのではなく、「テーマ」で集まるべきではないか。


【参考】
●【米国便り19】Queer クイア ってなぁに?*1
http://barairo.net/UStour2004/archives/000033.html
●クイアー(Queer)ってなあに?
http://barairo.net/works/TEXT/zadannkai.html


なぜ「…と支援者」がダメなのか

 ・「差別に反対する」ということをもし真面目に考えるのであれば、マジョリティー(多数派・例えば「性別違和のない異性愛者男性」)がすべきことは、少数派を「支援」することではない。そうではなく、多数派が不当に保持している特権を認識し、その特権によって自分自身が不当に保持している権力や富・利益を、本来持っているべき(自身が奪ってきた)少数派に返還することが、当然の義務として要請されているに過ぎない。「少数派を支援する」などという言い方は、本当に傲慢で、無知を開き直った、『盗っ人猛々しい』言い方に他ならない。
 ・同性関係嫌悪(ホモフォビア)やトランス嫌悪(トランスフォビア)、性別二元主義や女性差別をテーマとして考えた時、人々は、それぞれ自身の立場からこれらの問題の当事者です。これらのテーマの幾つかについては多数派だったり、その他の面では少数派だったりと、置かれる位置はいろいろですが、それぞれの位置から、これらのテーマについて、当事者なんです。抑圧され差別される側面についての当事者性は「損する」から比較的分かりやすいし可視化しやすいです。でも本来、「不当に得している側」の人だって、問題の当事者です。そして、「不当に得している側」の人にも、当事者としてしなくてはならない仕事があります。それは、決して『支援』ではありません。
 ・「バイセクシュアルの権利擁護運動」の立場からは、「異性関係」を「同性関係」と同様に肯定的に認識し表象することは必要不可欠の課題となります。その意味で、「私たち」の枠組みを考える時に「異性関係」を外部化する事はあり得ません。「異性関係」を外部化することは、同性愛者中心主義に場が支配されてしまっていることを結果的に示しています。過激に言い切ってみると、これは同性愛者中心主義を温存・拡大したい活動家の陰謀(笑)です。
 ・女性の(正確には非男性の)セクマイにとっては、現実的に、性的指向を問わず「女性であること」の方が話が通じたりしやすいし、居心地がよく「私たち」な感じがする場合があります。「女性である」ということはそれだけで「性的に少数派である=性的な不利益を被っている」ことを意味します。性をテーマにして社会的正義や平等・人権を考える時に、「異性愛女性(レズビアンバイセクシュアル女性ではない女性)」を「私たち」の枠組みから外すアプローチには、場合によっては、女性差別の当事者として男性特権を問われることを忌避したいゲイ男性やバイ男性の隠れた(無自覚の)意図を勘ぐることが私はあります。


【参考】
「アライ/ally」って何?ー「私たち」と「それ以外」とを分ける線をどこに引くのかを考えるー
http://kansai-qff.org/2010/j/allies.html


 強引にまとめると、「LGBTと支援者」という言い方は、アイデンティティーに固執した言い方だし、「私たち」の一部の人達だけを優遇しているし、マジョリティ(多数派)の責任や主体性を問うことを避けているし、男性特権や同性愛者中心主義に鈍感な感じがするし、「既に登録=認知されたマイノリティ」だけを考えている感じもするので、私は大嫌い!

*1:11/9追記