「わたしはレズビアンだ」から「女性が好きな女性なのに『わたしはレズビアンだ』と名乗れないのは本人にプライド(誇り)が足りないからだ」までの距離
百合魔王オッシー @herfinalchapter さんが、関西クィア映画祭に公開質問状を出したみたいです。
その質問状の内容ですが、部分的に「それは言い過ぎ」な点を含んでいるものの、中心となる批判点は適切な批判だと思いました。(ただし公開質問状(2)では、かなり妄想全開な様子です(>_<))
関西クィア映画祭のこれまでの取り組みの歴史や今年の実行委員メンバーについての背景情報がない場合には、つまり普通にネットで文章を読む人の立場から見たら、現在の映画祭のウェブサイトの記述では批判を受けるのもやむを得ない内容だ、と私も思います。
映画祭のサイトでは「私たちの周りにあふれる枠」の例として、「世の中には男と女しかいない」「男は性欲をコントロールできない」「性を売るなんてよくない」「愛する人は1人にしぼるべきだ」が挙げられています。これらはいずれも、フェミニズムやセクマイ系の社会運動から、性に関わる差別や偏見の例として、ずっと批判を受け続けてきた/いる考え方です。百合魔王オッシーさんもこれらについて「明確な性差別思想」と書いていますが、私もそう思います。
そしてその列記の中に「わたしはレズビアンだ」が入っているのを読むと、まるで「レズビアンとしてのアイデンティティー(自認)を持つことそれ自体が問題だ」「誰であってもレズビアンというアイデンティティーを持つべきではない」と映画祭が主張しているように、読めます。『レズビアンは…男性(異性)を愛する可能性に“開かれる”ようつねに社会的・政治的圧力を受けて』いるのは事実ですし、百合魔王オッシーさんのように『そのような社会的・政治的圧力を可視化するために「レズビアン」という概念が存在する』という主張にも一定の妥当性があります。
私自身の経験を思い出しても、私の目の前で「バイセクシュアルなんて存在しない」と堂々と言い放ったゲイ活動家のことを思い出します。そのような攻撃に抵抗するためには、時に、「バイセクシュアル」などのアイデンティティー語を使わざるを得ない場合というのは、実際にあります。
もし本当に映画祭が「わたしはレズビアンだ」と誰かが言うことそれ自体が問題だと考えているのであれば、つまり「それが誰であれ、レズビアンとしてのアイデンティティーを持つことそれ自体が問題だ」と考えていたり主張するのであれば、それはレズビアンへの抑圧そのものであり、私は支持しません。
ですので、もし本当に上記のような主張をすることを目的として現在のサイトの記述をしているのであれば記述を変える必要はありませんが、そうでないのであれば、もっと正確に意図が伝わるように直した方がいいと思います。「私たちの周りにあふれる枠」の例としてあげるのなら、「わたしはレズビアンだ」を挙げるのではなく、例えば「女性を好きな女性は皆、レズビアンだ」「女性が好きな女性なのに『わたしはレズビアンだ』と名乗れないのは本人にプライド(誇り)が足りないからだ」等を挙げれば、つまりもっと丁寧に言いたいことを記述すれば、言いたいことがより正確に伝わるのではないかと(勝手な推測も込みですが)思いました。
百合魔王オッシーさんも知っている通り、レズビアンに限らず何らかのアイデンティティー語を掲げた社会運動のあり方や考え方(アイデンティティー・ポリティクス)についての批判も、既にたくさんなされています。私自身はゲイコミュニティーやゲイの権利を主張する社会運動の中で、「男性が好きな男性なのに『自分はゲイだ』と名乗れないのは本人にプライド(誇り)が足りないからだ」等といった主張を本当に聞いたことがあります(それどころか、「ひびのはゲイなのにそれを認めて受け入れることが出来ずにバイセクシュアルと名乗っている情けない奴だ、みたいに陰で中傷された事さえあるw)。強制異性愛社会に抵抗するという目的自体は全く正しいのですが、そういった政治的目的の正当性を背景にして、個々人に特定のアイデンティティーを持つよう強いたり圧力をかけたり、そしてまた逆に(今回の記述のように)特定のアイデンティティーを持つ事自体に反対したり、そういうのは本当にやめて欲しいです。これらはどちらも、「アイデンティティー・ポリティクス」による不当な暴力の一例です。
言うまでもなく、これまで関西クィア映画祭では、アイデンティティー・ポリティクスの弊害や、セクマイ運動内部の差別や偏見を問題化するような映画も多数、上映してきました。例えば「アメリカのゲイ!」と言えば、シスジェンダーの白人健全者を想像してしまいがちですが、事実はそうではありません。同性婚を進めるキャンペーンのために「私たちのコミュニティー」の内部の多様性が不可視化されるような運動の進め方や運動内部の人種主義への批判を込めた映画『R/EVOLVE-結婚と平等とピンクマネー』などは好例でしょうか。民族とセクシュアリティーとが絡み合う現実を描いた特集『Queer Women of Color-有色女性のクィアたち』も充実したものでした。
日本でも、企業、行政、大使館などによるセクマイ系のイベントへの支援も増えてきました。そんな中で、有名な活動家や地位と権力のあるひとの声ばかりが「LGBTの声」だと僭称されたり、米国政府やイスラエル政府への批判が抑圧されたり、分かりやすく単純化された同性婚の話題がもてはやされる一方で「トランスの貧困」問題が後回しにされたり、そして定番ですが「ゲイ男性の都合」だけがいつものように優遇されたり、そんな「少数派内部の多数派によるワガママ」が拡大する危惧もまた、ますます大きくなりつつあります。そんな状況の中で、関西クィア映画祭のような方向性を持つ企画の重要性は、増えることはあっても減ることはないでしょう。
百合魔王オッシー @herfinalchapter さんのツイッターを拝見すると、あること無いこと好き放題書いていて、真面目に対応する必要などないのでは、とも実は思います。てか、そのうち自滅しそうな勢いw。しかし、まさに関西クィア映画祭2014は今週末。この時期に、「関西クィア映画祭の趣旨文を読んでみよう!」と様々な人に呼び掛けてまわってくれているのは、これほどありがたい広報はありません。「わたしはレズビアンだ」以外の部分の趣旨文や、今年実際に上映する予定の映画の案内などを見てもらえれば、ツイッターなどで映画祭の「悪口」を楽しんでいる人達のイケテなさと、関西クィア映画祭の魅力は、誰の目にも明かです。また、「実は『クィアな運動』の悪口を言いたいだけなのでは」とも感じられないことはない人からの意見に対してさえも誠実に対応している映画祭の姿を見せることが出来れば、それもまた、ますます映画祭への評価が高まる理由になるでしょう。ここはやはり、適切な内容の批判を寄せてくれたことことに感謝した上で、「アイデンティティー・ポリティクスに抵抗していたつもりが実は自分でもそれの悪い面をやってしまっていた、アイデンティティー・ポリティクスあなどりがたし」な事を認めて、記述の訂正をできるといいなぁ。一番忙しい時期に会議でどこまで出来るかという懸念はありますが、一応希望の表明。まぁ、返事は映画祭が終わってからになっても仕方ないような、そんなタイミングでの批判ではあったけれどもね。
以下蛇足
- 百合魔王オッシーさんは今回GBTではなく「レズビアン」が例示されていることを【「レズビアン」の〈女性同性愛者〉としての政治的立場性の弱さに付け込んでいる】と書いちゃっているんだけど、今年ここで「レズビアン」が出ているのは、今年の実行委員会で実権を持っているのが、外から一般的に見たらまさに「レズビアン」とカテゴライズされるような(されてしまうような)人達だからなんだけどな…。今年の上映作品のラインナップを見れば、何よりも女子系作品の充実が目をひくはずだけど…。とはいえ、分からない人には分からなくて仕方ないし、その意味で批判自体は不当ではないけど、でもその意味では今年の実行委員かわいそうすぎ。
- 今回初めてじっくりと今年の映画祭の趣旨文を読んでみて、特に【誰もが幸せに「好き」を味わえる挑戦をしてみませんか?】のあたり、これまでの映画祭でのトランスジェンダー関連の視点を特に重視するスタンスから、性愛関連の視点を重視する体制に変わったことがほのかに出てますね。ま、だから、いろいろその角度からの意見も内部でも出ているのよね。