ばらいろのウェブログ(その3)

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1/14に予告された在特会の集会とデモへの対応について

以下は、ひびの個人としての意見です。

現場で何ができるか〜「在特会による1・14襲撃予告について黙殺する」という方針について


 「朝鮮学校を支える会・京滋の江原さんのメール」の中で、「「在特会」による1・14襲撃予告について黙殺する」という方針について、以下のような理由が述べられています。

2)私たちが対峙して抗議活動をすれば、現場が騒乱状態になる恐れがあること。そのことは私たちの意図とは別に、学校側に多大な迷惑をかけることになり(児童公園は学校の門前です)、併せて児童公園使用について、近隣の方々と学校が長年に渡り築き上げてきた信頼関係を結果的に損なう恐れがあるからです。


 朝鮮学校は、まず何より「学校」なので、「通常の授業を、淡々とつつがなく行うこと」こそが学校の本来の仕事だし、(将来+現在における経済的な問題の解決も含め)「通常の授業をつつがなく行うこと」ができる状況を作ることこそが、「わたしたち」「朝鮮学校への攻撃を許さない、と考える」人たちのすべき仕事だと思います。だから、朝鮮学校やその周辺の現場が物理的な騒ぎになるのは、仮にそれが「排外主義に反対する」という正当な目的のためであっても、まさにそれこそが「在特会の思うつぼ」だと思います。
 現実的にいっても、京都朝鮮第一初級学校は、近隣住民との関係を形成しその信頼関係の中で公園使用を認めさせているという事実があります。最近になって急にわらわらと「支援します」「応援します」と言っている人たち*1の「何か行動をしたい」という希望よりも、江原さんのメールにもあるように、近隣住民への配慮を優先するのは、当然だと思います。
 それでも、当該学校側が、現時点で学校や学校前の公園で対抗して集会や行動をすることが、「学校にとって」メリットがあると判断したなら、それを支持し応援する、という選択もあったとは思います。しかし今回はそういう判断ではなかったようですね。
 従って、デモや集会の当日現場においてどう行動するか、という点について言えば、江原さんのメールに書かれていることを尊重する、というのが、本件についての私の選択になります。


 まれに、「排外主義の暴力と直接闘おうとしない」と言って今回の「黙殺」の方針を否定的に評価する人もいるかもしれません。しかし「闘う/闘わない」を決めるのは被害者自身であるべきだし、その闘いの方法(多様な方法がある)を決めるのも第一義的には被害者です。被害者(やマイノリティー)は支援者のために存在するわけではありません。何か闘いたいのなら、他人の土俵でではなく、自分の土俵ですべきだと思います。

現場で何ができるか〜私にとっての問題

 私にとっての問題は、朝鮮学校が「通常の授業を淡々とつつがなく行うこと」ができる状況を、作れなかったことです。在特会には、完全に敗北です。
 では、実際の所、在特会の集会やデモを「本当にやらせない」方法はある/あったのでしょうか。幾つか、その可能性があるものを検討してみます。

(1)デモの不許可を求める(現行法下での対応)

 デモ申請の受付と許可は公安委員会、公園使用の許可は京都市なので、そこに許可の取り消しを求めたり、裁判所に許可取り消しの仮処分申請をする、という方法。
 しかしこれは、第一に現実味に欠ける。デモ行進は極めて重要な権利であることから、デモの内容を政府/公安委員会が検討することを許さず、どんなに反社会的・反政府的なものでも、ごく一部の例外を除いてデモ自体は許可させてきた歴史的経緯がある。在特会のデモが不許可になる可能性は、現行法上は現実的には極めて低い。
 また、そもそもデモの内容を検討して、その思想信条によって許可不許可を決める権限を政府に与える事自体が問題があり(社会の多数派に都合の悪いデモや反政府デモが許可されなくなる危惧)、その点からも、デモ自体の不許可を求める方向性には賛成しがたい。
 なお、デモと集会の不許可を求めるというのは、国家権力の許認可権とそれを現実化する機動隊の物理的暴力によって集会とデモを禁止・規制するということです。在特会レイシズムという暴力に対して、国家権力の暴力を対置する、ということであって、非暴力的な対応方法ではないことは、自覚しておくべき。

(2)「在特会的なもの」を違法化する(法律を制定)

 今回は間に合わないが、長期的に見た時、デモの内容を政府が検閲して恣意的に許可不許可を決めるのを防いだ上で、しかし差別的なデモ行進をさせないための方法として、憎悪犯罪をあらかじめ法律で定めて違法化するという方向性もある。私自身は憎悪犯罪の法制化には現在は反対の立場だが、実は結構迷ってもいる。
【参考】12月の在特会の朝鮮学校への押し掛け行動は法律的にどうなのか

(3)私たち自身で物理的暴力を行使して在特会を規制

 在特会レイシズムという暴力に対して、国家や機動隊の物理的暴力に頼らず、自分たち自身で暴力を行使して集会やデモをやらせない、朝鮮学校に近づけさせないという方法。現場で対抗集会と対抗デモをする、というのは、「集会やデモをやらせない」とまでは行かないまでも、これと方向性としては近い。一般的には、私がもっとも支持・共感する事が多い方向性。
 しかし今回は、冒頭に記載した理由により、今回は選択肢にならない。


 以上から、少なくとも現在は、在特会の集会やデモを「本当にやらせない」方法はない、ということをスタートにする必要があると思います。
 つまり現状では、私にできることは、在特会の暴力を「目撃する」ということだけだと思います。

目撃証人という考え方

 このあたりのことを話せる人がいると個人的にはとてもうれしいのですが、「私が、誰かを、暴力から守る」ということは、実はそもそもできないことなのではないか、傲慢な発想なのではないか、無理に誰かを「守ってあげよう」とすると、話がおかしくなるのではないか、ということを最近よく思います。「○○さんを守る」というのは、善意の皮をかぶっているけれど、相手を支配やコントロールすることとセットだったり、自分が社会的な権力を獲得していく時の方便なのではないのか*2。むしろ逆に、「自分は、他人を守ることは、できない」「他者に守ってもらうのは無理」という認識を前提とした個々人が、それでも協力しようとし続けることの方が大事でないか、と思います。そういうことを考える時、「目撃証人/witnessになる」ということの積極的な意義を、思うのです。
 私は「目撃証人/witness」という言葉を、パレスチナの国際連帯運動(ISM)に参加した時に知りました。圧倒的な力関係、支配、占領、暴力、殺人がある現場において、直ちにその力関係を変えることができない状況に於いて、何ができるのかを真面目に考えた時の選択の一つとしてです。私は武装闘争も「あり」だとは思うのですが、でもそれは誰にでも簡単にできる選択ではありません。そんな時、目撃証人になる、ということは、積極的な意義があるように思うのです。これは、コミュニティー内部における暴力や、性的な暴力について考える時にも、似たようなことを思います。
【参考】たとえそこがどこであっても(後半部分)
http://barairo.net/works/index.php?p=30

 今回の在特会の集会とデモについては、「目撃証人になること」を(可能であれば)しようと個人的に思っています。(一緒に行く人がいれば、行きましょう)

現場で何ができるか〜あり得る/得たかもしれない他の選択肢

 在特会のデモや集会を阻止できない、現場でのトラブルや現場での攻撃的な雰囲気になることを避ける、という前提の元で、集会やデモの現場で他にできることはないでしょうか。
 今回はもう時間的余裕がありませんが、サイレント・スタンディングのような選択肢、もしくは、人間の鎖の様な選択肢もあったかもしれない、とは思います。これらは、在特会側に対して一切攻撃的なことや攻めるようなことはせず、ただ単に黙って看板を掲げて皆で朝鮮学校の前で立っているというようなこと。看板も、在特会を批判するのではなく例えば「全ての人に、自分の民族や文化を誇りに思える教育を保障しよう」みたいな感じ。もしくは、そういう看板さえ掲げず、黙って、朝鮮学校の周りを何重にも人間の鎖で囲んで、明確な意志を示すこと。どんなに言葉で挑発されても一切反論せず、殴られてもやり返さず、ということ。
 これは、在特会の投げかけてくる罵倒や差別的表現を、朝鮮学校に届く前に私たちで受け止めようとすることです。もしくは、「私たち」自身も罵倒される側に立つことを明確にして実際に罵倒される場所にいること、そうやって出来事を共有し、出来事の目撃証人になる、ということです。
 これだと、外から見る人への表現としても、「暴力的な在特会」が朝鮮学校を暴力的に一方的に攻撃しているという事実を分かり易い絵にして対外的にも伝えられるし、近隣住民への印象も悪くないかも。在特会のデモや集会に直接対峙はせず、徹頭徹尾、非暴力主義でやるというのは、今回のような局面では手段として一定有効かもしれないなとは思います。
 今後については、こういった選択肢も検討できたらいいな、とも思いました。
エルサレムで行われている「Woman in Black」に少し似ているかも)

抗議の声を公的に上げるべきではないか

 私は、集会やデモを、政府や警察の物理的暴力を用いて(例えば、不許可にすることで)やらせないことには反対です。しかし、それは、在特会のデモや集会(それは、事実に基づいて対話をするようなものではなく、民族差別をあおり民族的少数派を侮蔑し攻撃する内容のものです)を肯定したり評価したり、容認することとはまったく違います。レイシズムのデモや集会を政府や警察によって禁止することには反対ですが、その代わり、市民社会こそがこういった差別的なデモや集会に対して、強く厳しく広範に抗議の声を上げていく必要があるのではないでしょうか。
 おそらく、在特会のデモの現場に行って野次を飛ばすことの方が簡単なんです。しかし今必要なのは、私たち自身が、自分の言葉と責任で、私たちの生活の中から、在特会や、在特会の集会とデモを批判する声を広げていくことなんだと思います。


 「黙殺する」ということがどれほどの痛みを朝鮮学校に強いることなのか、それを強いているのは何なのか、江原さんのメールだけでは、なかなか伝わっていないのかもしれません。
 在特会のデモは、日本の法律にのっとって、合法的に行われると思います。「合法なので批判しにくい」と言うのは、現実を批判できない、ということです。だからこそ、その合法的に行われるデモを、その在特会の思想信条をこそ理由としてちゃんと公的に批判する声を、自分も含めて多数上げること。在特会を公然と批判するというリスクを自身でも負うこと。朝鮮学校に向けられている暴力を朝鮮学校だけに引き受けさせるのではなく、自身でも引き受けること。
 在特会のデモを「見て見ぬふり」したくないのであればそういうことが必要だし、リスクを引き受ける気がないなら、「いさぎよく」、朝鮮学校を見殺しにしている自身を引き受けるべき、だと思います。


京都市長在特会批判のコメント出させることはできないだろうか、というのも、これに関わる話です。公園の使用を京都市にはっきりと肯定させることも、必要だと思います。




 本件も含めて、直接丁寧に話をする場が欲しいですね。私が自分で話をする集まりを呼びかけるというのも必要かも、とも思いました。この件、公の場でコミュニケーションする機会/場が実はホントに少ないので。仲間募集です(笑)




以下、資料

●1・14朝鮮学校による侵略を許さないぞ!京都デモ(在特会
http://www.zaitokukai.com/modules/news/article.php?storyid=326


●「在特会」による1・14襲撃予告は黙殺
朝鮮学校を支える会・京滋の江原さん)
http://d.hatena.ne.jp/hippie/20100110/p1

以下、メモ

パレスチナの状況に似ている面がある

  • 違法入植者の暴力的な襲撃が実際にあるので、パレスチナ人の小学生が安全に登下校できるように、同伴する活動が恒常的に行われている。
  • イスラエルで集会やデモがある時は、占領に反対する側のものにも、占領を支持する側のものにも、そのどちらであってもその集会やデモ自体に反対する対抗行動が、オリジナルの集会やデモの敢えてすぐ隣で、毎回、相互に、行われています。在特会に対しても、今後そういう感じになるかも。

 本稿は以下の2点を大前提としています。

  1. 京都朝鮮第一初級学校による勧進橋児童公園の使用は、学校と近隣住民・京都市当局の話し合いと合意の中で平穏に行われており、法的にも道義的にも問題はない
  2. 日本政府並びに京都市などの行政当局は、在日朝鮮人の民族教育を弾圧してきたという負の歴史、並びに、本来行政当局が行うべき民族教育への保障・支援を怠ってきたという不作為の負債を負っている

 この二つの前提の是非についての議論は、このエントリーでは行いません。いずれ別の場所を設けます。また、この前提に関わるコメントは削除します。


 

*1:実際は、私のように(汗)心情的な支援に留まり、何もしないことも多い。私のように、気が向いた時だけ支援する人たち

*2:「あなたを守る、ということを可能にしているチカラ」を「私」が持っていて、「あなた」は自分を守ることができるチカラを持っていない、という現実のありかたそのものをどう評価するのか、という視点がないと、「守ってあげる」系の発言は危険