ばらいろのウェブログ(その3)

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私はパレスチナ側の暴力を認識できていないのだろうか?


説得力がある。紹介記事です。

■拡散歓迎■


京都の岡真理です。


現在、古居みずえさん、土井敏邦さん、志葉玲さんなどのインディペンデントのジャーナリストの方々がガザに入られ、現地から報告を届けてくださっています。


個々の方々のブログ等でも読めますが、パレスチナ情報センターのアーカイブが随時、リンクを貼ってくださっており、ここで、その他の情報とあわせて、最新の更新記事を読むことができます。
http://palestine-heiwa.org/#ac


これらインディペンデント・ジャーナリストのみなさんのご努力に心からの敬意を捧げ、その安全をお祈りするとともに、アーカイブの更新作業という地道な作業を通して、パレスチナの貴重な情報を社会に届けてくださっているパレスチナ情報センターのみなさまにも心から感謝いたします。


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ガザで起きていること、それは、イスラエル国家によるパレスチナ人に対する、紛れもないジェノサイドです。70年近く前、パレスチナを不当に占領下者たちが、50年近くにわたりガザを占領し、さらに、その住民たちを7年以上、封鎖下におき、そして今、その住民たちを大量殺戮している――それが、今、ガザで起きていることです。


しかし、主流メディアの報道は、イスラエル側の主張に沿う形で、問題を、イスラエル対ハマースという構図に切り縮め、そうすることで問題の本質、すなわち、これがガザに対するジェノサイドであり、ガザの全住民たちがいま、イスラエルによる「漸進的ジェノサイド」と、その占領と封鎖と闘っているのだ、という事実を隠蔽していると思います。


マイケル・メリーマン=ロッツの「私はパレスチナ側の暴力を認識できていないのだろうか」をご紹介いたします。問題の本質とは何であるか、暴力の「現象面」だけに捉われることがいかに問題の本質から私たちの認識を逸脱させてしまうか、ということについて、たいへん示唆に富むテクストです。


メリーマン=ロッツは、「アメリカの友人奉仕カウンシル」の中東担当として、長らくパレスチナイスラエル問題に深くコミットし、第二次インティファーダのもとで、双方の暴力のありようを潰さに体験してきた人です。


第二次インティファーダで、双方の暴力が頂点に達していたとき、ホロコースト生還者を両親にもつサラ・ロイさんが語った言葉が思い出されます――「パレスチナ人の自爆攻撃という忌むべき犯罪が生起するのは、この「占領」という文脈においてなのです。占領がなければ、自爆攻撃もないのです」(サラ・ロイ「ホロコーストとともに生きる――ホロコーストサヴァイヴァーの子どもの旅路」より。『みすず』2005年3月号)


私はパレスチナ側の暴力を認識できていないのだろうか?

http://mondoweiss.net/2014/08/acknowledge-palestinian-violence.html


マイケル・メリーマン=ロッツ 
Mondoweiss / 2014年8月12日


先月ずっと、ガザで起きていることについて書いたり、語ったりする中で、私は多くの人々から、私がイスラエルパレスチナの問題で一方の側に偏った立場をとっていると、そして、私がパレスチナ側の暴力を認識しそこなっていると言って批判されている。同じような批判がほかの多くの者たちにも向けられているのを目にし、この問題についてとりあげてみたいと思った。


この問題に関して一定期間、アクティヴィズムに関わってきた者ならだれでも、彼あるいは彼女をして長期にわたるアクティヴィズムに関わらせる契機となった特別の瞬間というものがある。私の場合、その瞬間とは、2人のイスラエル人兵士が2000年10月、ラーマッラーで殺されたときだ。


私がエルサレムに行くタクシーを拾おうとしていると、二人の兵士がラーマッラーの警察署に連れて行かれるところだった(警察署はタクシー乗り場の隣にある)。警察署の外で30分はゆうに立っていると、群衆が集まってきた。彼らは、その日、あとで予定されている葬儀のときに誰かを暗殺することになっていたイスラエル兵士のスパイ2名が捕まったという噂を聞きつけて、やって来たのだ。男たちはスパイではなかったことが分かるのだが、状況や歴史を考えると、故なき噂ではなかった。


警官たちが警察署の周りの壁を輪になって取り囲んだので、私はタクシーでエルサレムに行こうとタクシー乗り場に歩いて行った。私の乗ったタクシーが出発すると、誰かがタクシーを止め、兵士が殺されたと叫んだ。私はラーマッラーの野菜市場の前でタクシーを飛び下り、アル=マナーラ広場(ラーマッラーの中央広場)を横切り、私を自宅に届けてくれるビールゼートタクシーに向かった。アル=マナーラ広場を横切ったところで、青年たちの一団が二人の兵士の遺体を引きずって、広場に入ってきた。それらの男たちの一人が、私ののど元をつかみ、私を脅した。ほかの者たちは、兵士の遺体を蹴ったり、残忍な扱いをしていた。私は、襲ってきた男をなんとか説得して解放してもらうと自宅に戻った。数時間後、イスラエルのアパッチヘリコプターがラーマッラーの警察署を爆撃するのを見た。


これは、私にとって、人生の転換点となる瞬間だった。残忍な暴力と怒りを経験したのはそれが初めてだった。特権的で庇護された環境で育って、私は、このような極端な暴力がこんなにもすぐに現れるということが理解できなかった。その前にも、人が撃たれるのを遠くから目撃したことはあったが、自分の知らない誰かが撃たれるのを遠くから眺めるのは、驚くほど、心に響かない経験だった。だが、兵士の殺害という、生々しい出来事が私を揺さぶり、居心地のよい現実の外へと私を押し出した。それによって私は、自分が目撃したことについて、人間の本性について、そして、私が今なお答えを出そうと闘っている暴力というものについて、数多くの問いを自問し始めた。


それはまた、私にとって、ここにとどまり人権問題に関わってこのまま働き続けるか、それとも立ち去るかという決断を下さねばならない瞬間だった。私はとどまることを選んだ。とどまるという決断によって私は、さらなる暴力にさらされることとなった。パレスチナ側、イスラエル側双方の暴力に。


2001年5月、西エルサレムで何台かの車が爆破された。一台は、私が教会に行くときにいつも通る道で爆発した。私は爆発の音を、現場から2ブロックほど離れたところで聞いた。2002年3月初旬、1人のパレスチナ人がイスラエルの協力者であるとの容疑でアル=マナーラ広場に逆さ吊りにされ、喉を掻き切られた。イスラエル侵攻のさなかのことだった。私の職場の同僚と私は、カメラをつかむと、銃をもったパレスチナ人の男たちに占拠された通りを抜けて殺害現場へと向かった。私たちが到着する前に、遺体は下されていたが、地面はなお血で染まっていた。それから一週間もたたず、私が教会から戻る途中、パレスチナ人の自爆者が、エルサレムのフレンチヒルの交差点でバスの傍らで自分を吹き飛ばしたのだった。私を乗せたタクシーが交差点を通るほんの30秒前のことだ。また、銃を持ったパレスチナ人の男が、私が昼ご飯を食べていたレストランの前で、イスラエルに協力したという容疑で二人の男性を撃ったこともあった。これらすべての出来事によって私は、パレスチナの暴力とイスラエル人が感じている恐怖のいくばくかを明瞭に理解した。


しかし、それと同じ時期、私は、イスラエル人によって犯される信じがたい暴力も見た。デモに参加している人々が撃たれるのを私は見た。ベイト・リマ、ベニ・ナイームその他の西岸の街で起きた処刑を調査したこともある。ある処刑現場にやって来たとき、頭蓋骨の欠片や髪の毛や血が地面や処刑現場の壁にまだ残っていた。私は、「防衛の楯」作戦[第二次インティファーダさなかの2002年3月から5月にかけて西岸の諸都市に対して行われた侵攻作戦]のあいだずっとラーマッラーにいた。首の後ろに銃口を突きつけられながら、自宅の周りを歩かされたり、装甲兵員輸送車が隣の家を撃ちまくっているあいだ、バスルームの床の上に縮こまっていたこともある。ある女性から、糖尿病の母親が薬もなく、道路が封鎖されて病院へ行くこともできないために死にかけているという電話を一晩中、受けていたこともある。イスラエル兵たちが私たちのオフィスを襲撃し、そのときから行方不明になった同僚を探したこともある。検問所でパレスチナ人たちの顔にブーツの跡がありありと残っているのを見たこともある。イスラエル兵らが彼らの頭の上に立っていた証拠だ。兵士らが子どもの前で彼らの親を辱めたり、同じ兵士たちが子どもたちを攻撃したり恐がらせたりするのも目撃した。


もっとも重要なことは、ほぼ3年間、私が職場で朝、最初にしたことは、殺害と負傷に関して、前日、届いた現場報告とレポートに目を通すことだった。私は、第二次インティファーダにおいて殺されたパレスチナ人ほぼすべての死の状況の詳細を綴った報告を、ほか何名が負傷したのかと合わせて、注意深く読んだ。それら殺された者たちの家族を訪ね、殺害の現場検証にも加わった。私はまた、パレスチナ人側の暴力行為についても、他のパレスチナ人に対するものであれ、イスラエル人に対するものであれ、ほぼすべての報告を読んだ。


やがて暴力は溶け合い始めた。個人的な暴力行為は意味を失った。暴力によって影響を受けるパレスチナ人やイスラエル人にとって些末なことだという意味ではない。そうではなくて、私にとって、暴力行為は紛争を規定することを止めたということだ。しだいに、現在の物理的暴力行為は紛争の歴史から切り離して考えることはできないということ、そして、その歴史とは、植民地主義パレスチナ人の追放の歴史である、ということが明らかになっていった。同様に明らかになったことは、私が目撃した物理的暴力行為は、イスラエルの占領とその民族的排外主義、そして差別的政策を規定する[物理的暴力よりも]はるかに悪質な法的暴力や構造的暴力とも切り離すことができない、ということだ。


端的に言えば、私の意見では、イスラエルの暴力とは、新植民地主義の軍事的占領とアパルトヘイトのような不平等を維持するために行使されなければならない暴力であるということだ。パレスチナの暴力は、この占領とアパルトヘイトのような不平等に対する不可避の反応なのだ。暴力とはそれゆえ、占領とイスラエルアパルトヘイトが終わったときに初めて、終わるだろう。


このことは、暴力が暴力に対してバランスをとりうるといったような状況ではないことを意味してもいる。紛争の力のダイナミクスがこのようなものであるなら、バランスなど存在しない。両者が互いに傷つけ合い、しかし、パレスチナイスラエルの圧倒的な力はイスラエルにあり、イスラエルパレスチナ人の権利を否認していることが、紛争の核心である。


非暴力を固く信じる者として、私は、全当事者による暴力を終らせるために、そして、公正な平和へと至る長期にわたる変化のために積極的に活動を続けるつもりだ。しかし、この変化は、紛争における実際の力のダイナミクスと歴史的不正が認識されず、理解されず、取り組みもされなければ、実現することはできないだろう。


真実は、紛争を引き起こしているのは、イスラエル人に対するパレスチナ人の行動の歴史ではなく、いまだ解決しない植民地主義によるパレスチナ人の追放と継続する彼らの権利の否認こそが、紛争を引き起こしているのである。


パレスチナ人の追放の歴史、占領の現実、そして法的、構造的不平等という現実が、私がこれからも引き続き、それについて語り、それを終わらせるために取り組むつもりのものであって、個人的な暴力行為についてではない。個人的な暴力行為は、より大きな変化が実現して初めて終わるということを認識しているからだ。多くの者にとってこのような意見は、バランスを欠いたものに映るかもしれないが、パレスチナイスラエルでは、バランスなどという現実は存在しないのだ。

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マイケル・メリーマン=ロッツは、フィラデルフィアアメリカの友人奉仕委員会のパレスチナイスラエルのプログラム責任者。1996年からパレスチナのアクティヴィズムに関わる。

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[翻訳:岡 真理]